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三太郎の日記 第一

著者:阿部次郎

さんたろうのにっき だいいち - あべ じろう

文字数:86,568 底本発行年:1950
著者リスト:
著者阿部 次郎
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序章-章なし

[#ページの左右中央]

Es irrt der Mensch, solang er strebt.

[#改ページ]

自序

此類の書は序文なしに出版せらる可き性質のものではない。 自分は自分の過去のために、小さい墓を建ててやるやうな心持で此書を編輯した。 自分は自分の心から愛し且つ心から憎んでゐる過去のために墓誌を書いてやりたい心持で一杯になつてゐる。

此書に集めた數十篇の文章は明治四十一年から大正三年正月に至るまで、凡そ六年間に亙る自分の内面生活の最も直接な記録である。 之を内容的に云へば、舊著「影と聲」の後を承けた彷徨の時代から――人生と自己とに對して素樸な信頼を失つた疑惑の時代から、少しく此信頼を恢復し得るやうになつた今日に至るまでの、小さい開展の記録である。 自分は自分の悲哀から、憂愁から、希望から、失望から、自信から、羞恥から、憤激から、愛から、寂寥から、苦痛から促されて此等の文章を書いた。 全體を通じて殆んど斷翰零墨のみであるが、如何なる斷翰零墨もその時々の内生の思出を伴つてゐないものはない。 固より外面的に見れば、此等の文章の殆ど凡ては最も平俗な意味に於ける何等かの社會的動機に動かされて書いたものである。 經濟上の必要や、友人の新聞雜誌記者に對する好意や、他人の依頼を斷りきれない自分の心弱さなどは、外から自分を動かして、此等の文章を書くための筆を握らせた。 併し此等の外面的機縁は自分の文章の内容を規定する力をば殆ど全く持つてゐなかつた。 自分は此等の外面的、社會的必要に應ずるために、常に内面的衝動の充實を待つてゐた。 さうして内面的衝動の充實を待つて始めて筆を執つた。 從つて自分は屡※(二の字点、1-2-22)經濟上の窮乏を忍んだり、締切の日に後れて他人に迷惑をかけたり、口約束ばかりで半年も一年も引張つて置いたりしなければならなかつた。 此等の文章は外面的機縁によつて火を導かれたが、外面的動機の力を以つて爆發したものではない。 固より此等の文章は悉く内面に蓄積する心熱の苦しさに推し出されたものだと云ふのは誇張である。 併し書くに足る程の内面的成熟を待つて之を記録したと云ふだけの權利は、自分に許されてゐると信じてゐる。 自分は此等の文章がまだまだ熱と力に缺けてゐることを熟知してゐる。 併し、その時々に自分の人格に許された限りの誠實を盡して、此等の文章を書いたと云ふことだけは憚らない。

とは云へ、誠實の深さも亦人格の深さと始終する。 自分は從來に於ける自分の文章を貫く誠實が、甚だ淺く輕いものなことを思ふ時、そゞろに冷汗の流れることを覺える。 囘想すれば、事物の眞相に透徹せむとする誠實も淺かつた。 自分の生活を深く/\穿ち行かむとする誠實も亦淺かつた。 ――從來、自分は比較的に論理的客觀的思考の力に富んだ者と、世間から許されてゐるやうな氣がしてゐた。 さうして自分も亦深い反省なしに、茫漠として此評價を受納れてゐた。 然るに、その實、自分の思想は、現在刹那の内面的要求をのみ基礎として、事物の一面にのみ穿貫し行く部分觀に過ぎないものが甚だ多かつた。 さうして自分は自分の内面的要求が特にその阻遏さるゝ點に於いて燃え立つことを經驗した。 從つて自分は常に自分の要求を阻遏する一面にのみ極度に強い光を投げて、自然と人生と自己とを觀じて來た。 自分の思想は、自然に就いても、自己に就いても、靜かに深い客觀性を缺いた少年の厭世主義が主調をなしてゐた。 而も此厭世主義を自己に適用するに當つて、自分は解剖の一面にのみ熱して、開展に向ふ努力の一面を忘れ勝であつた。 自分は自分の解剖が穿貫の力を缺いてゐるとは今でも思つてゐない。 さうして現在と雖も、實相の凝視、解剖、並びに嫌厭を、無意味にして呪ふ可き事だとは少しも思はない。 併し自分の人格は、何と云つても解剖の一面に停滯して、靜かなる包容と、根強き局面開展の力とを缺いて居た。 自分は過去の自分を囘顧する時、此點に於いて自分が憎くて恥かしくてたまらない。 殊に自分は今自分の内生が徐々として轉向しつゝあることを感じてゐる。 從つて過去の自分に對する愛着は、次第に冷淡と憎惡とに變化しつゝあることを感じてゐる。

序章-章なし
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三太郎の日記 第一 - 情報

三太郎の日記 第一

さんたろうのにっき だいいち

文字数 86,568文字

著者リスト:
著者阿部 次郎

底本 合本 三太郎の日記

青空情報


底本:「合本 三太郎の日記」角川文庫、角川書店
   1950(昭和25)年3月15日初版発行
   1966(昭和41)年10月30日50版発行
※底本の亀甲括弧は、アクセント記号と重複するため、山括弧の「〈」(1-1-50)と「〉」(1-1-51)に代えて入力しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:山川
2011年8月4日作成
2021年10月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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