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法学とは何か ――特に入門者のために

著者:末弘厳太郎

ほうがくとはなにか - すえひろ いずたろう

文字数:16,579 底本発行年:2000
著者リスト:
著者末弘 厳太郎
底本: 役人学三則
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一 はしがき

一 四月は、毎年多数の青年が新たに法学に志してその門に入ってくる月である。 これらの青年に、法学が学問として一体どういう性質を持つものであるかについて多少の予備知識を与えるのが、この文章の目的である。

無論、本当のことは、入門後自らこの学問と取り組んで相当苦労した上でなければわからない。 やかましく言うと、法学の科学的本質如何というような根本的の問題は、勉強してみればみるほどかえってわからなくなると思われるほどむずかしい問題で、現に法学の第一線に立っている学者に聴いてみても、恐らくその答はかなりまちまちであろうと考えられるほどの難問である。 だから、こうしたむずかしい理論を頭から入門者に説こうとする意思は少しもない。 しかし、それにもかかわらず、敢えてここにこの文章を書こうとするのは、次のような理由によるのである。

二 およそ学問に入る入口で、今これから学ぼうとする学問が大体どういう学問であるかについて一応の知識を持っていることが、学習の能率を上げるのに役立つことは、我々が子供の時からの経験でよく知っている。 そうした知識を持たないために無用な苦労をした経験を持つ人は、非常に多いのではなかろうか。 例えば、私自らが中学四年の時に初めて三角術を教えられた時のことを思い出してみると、これが算術はもとより幾何学に比べても非常にむずかしいように思われたのであるが、後から考えてみると、そのむずかしかった主な原因は、先生が、講義の入口でこの学問が一体どういう目的を持つものであるかを全く教えずに、頭から教科書に書いてあることを教え込もうとしたことにあったのである。 その後中学の数学教育も非常に改善されて、今ではこうした弊害は大体取り除かれたように聞いているから、今の青年諸君にこうした経験を語っても、あるいは十分にわかってもらえないのかも知れないが、類似の経験は多少ともすべての人が持っていると思う。 ともかく、今自らが学びつつある学問が一体何を目的としているのか全くわからなければ、結局教えられることを暗記するよりほかに学習の方法はないのだから、いつまでたってもなかなか学問そのものを理解できるようにならないのは当然である。

ところで、大学の教育はどうであるかというと、理科や医科のような自然科学系統の学部はもとより文学部のようなところでは、大体そこに入学してくる学生は、初めからその学ぼうとする学問について少なくとも常識程度の知識を持っているのが普通であるように思われるのであるが、法学に志して法学部に入ってくる学生の場合は、一般に事情が著しく違うように思う。 私などは、父が長年司法官をしていた関係上、普通一般の学生に比べればかなり法学についての予備知識を持っていた筈であるが、それでさえ、いよいよ入学してみると甚だ腑に落ちないものがあった。 どうも自分が予期したものとは大分違った学問を教えられているような気がして、甚だ取っ付きが悪い。 仕方がないから先生の講義することをそのままノートすることはしたものの、当分の間は五里霧中で、何のために講義を聴くのだか、全く見当がつかないようなありさまであった。

こういう次第だから、私ほども予備知識を持たない普通一般の学生の迷惑は、恐らく非常なものであったろうと思う。 それでも、ともかく大学を出さえすれば官吏にもなれる、一流会社にも採ってもらえることだけは確かであったから、わかろうがわかるまいが一生懸命にノートをとって受験の材料をこしらえるのであるが、こんなことをしているうちに少し心掛けよく本式に勉強した者は、いつとはなしに段々と法学が何であるかを理解して、自然学習に興味を持ってくるようにもなる。 しかし私の知っている限り、かなり多数の学生は、卒業するまで何のために法学を学んでいるかを呑み込むことができず、そのため平素はノートを作ることにのみ苦労し、試験期になればそれを丸暗記することに苦労したのが、その頃の実情であった。

もっとも、法学部に入ってくる学生のことだから、彼らのすべてが初めから法学に多少とも興味を持っているに違いないと思うのがそもそもの間違いで、学生の多数は、法学に志しているのではなくして、単に法学部を卒業すること、そしてできればなるべく良い成績で卒業することを志しているにすぎないから、彼らにとっては、学問そのものはどうでもよいのである。 だから、卒業後司法官や弁護士のような法律関係の職業に向おうとする少数の学生以外の者にとっては、学問は要するに受験の具にすぎなかったので、私がその後大学に在職している間に高文試験制度が変って法律関係の試験科目が減ると、それを機会に法律学科の学生が急に減って――法学科目の少ない――政治学科の学生が激増したるがごときは、まさにこの傾向を如実に反映したものと言うことができる。

だから、当時我々は、ドイツの或る学者が法学は要するに「パンの学問」Brotwissenschaft にすぎないと言ったという説を聞いても、深くその意味を考えてみようともしなかった。 また、卒業後官庁や会社に入って相当出世した先輩たちの、「大学で習ったことそれ自身は何の役にも立たない、習ったことをすっかり忘れてしまった頃になって初めて一人前の役人なり会社員になれるのだ」というような話を聞いても、なるほどそういうものかなと感心するぐらいのことで、深くその訳を考えてみる気さえ起さなかったような次第であった。 今から考えれば――後に記すように――、この先輩の話にも、「パンの学問」にも、なかなか面白い意味があるのだが、当時としては全くそうしたことに気づかないのが実情であった。

そういう事情であったから、法学部の講義の中心をなしていた憲法とか民法とかいうようなものは、要するに、現行法制を説明してその知識を与えるのが目的であると学生一般は考えていた。 これらの講義を通して法学的なものの考え方を教えるのだということを、意識的に気づくようにはほとんどならなかったのは勿論、現行法の講義と同時にローマ法、法制史、法理学、外国法等の講義を与えられても、それと現行法の講義との間にどういう開係があるのかというようなことは全くわからず、また十分教えられもしなかった。 殊に外国法のごときは、外国人が先生であった関係もあって、一般の学生にとっては甚だ苦手な科目で、学校では特に外国法奨励のために成績の良い者には賞金をくれたりしていたにもかかわらず、結局この科目も、暗記の対象である以上にはほとんど何らの教育価値もなかったように思う。

私は終戦後大学教育を離れてから既に五年以上を経ているので、今の法学部で一般にどういう教育が行われているかについて、ほとんど何らの具体的知識も持っていない。 また、このごろの学生の素養や学習態度等についても、全く無知識である。 しかし、およそ法学が学問としてどういう性質を持つものであるかを今でも多くの学生は知っておらず、何とはなしに法学部に入学して、ただ卒業することだけを考えている人が、非常に多いのではないかと私は想像している。 そういう学生に、多少法学と法学教育の真の目的がどこにあるかを教えようというのが、この文章を書く目的である。

二 近代社会が法学的訓練を受けた人間を必要とする理由

三 大学に入学してくる青年は、すべて結局は職を求めているのだと言っても言い過ぎではないと思う。 しからば、職を求めるために大学教育がなぜ必要なのか、また、少なくともなぜ役に立つのか、その問題を考えることが、大学における教育もしくは学習の目的を理解するために是非とも必要である。 殊に法学部の場合には、その必要が最も大きいのであって、ここでは従来この真の理解が十分でないために、教育もしくは学習そのものが著しく能率を害されているように私は考えている。

裁判官や弁護士のような法律的職業に志す者が法学部に入学する目的は大体わかるが、現在法学部に入ってくる学生のすべてが、必ずしも裁判官や弁護士になりたがっている訳ではなく、むしろその大部分は別な職業に向うことを目的としている。 それでは彼らは、果して何のために法学部に入ってくるのか。 彼らが法学部に学び法学部を卒業することが、なぜ職業を得ることに役に立つのか。 もしも法学部の教育が、単に法律的職業を得るのに役立つにすぎないとすれば、今のように数多くの青年が法学部に入りたがる訳はない。 また、今のように多数の学生を収容する官公私立の法学部が沢山必要な訳もわからない。

一 はしがき

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法学とは何か - 情報

法学とは何か ――特に入門者のために

ほうがくとはなにか ――とくににゅうもんしゃのために

文字数 16,579文字

著者リスト:

底本 役人学三則

青空情報


底本:「役人学三則」岩波現代文庫、岩波書店
   2000(平成12)年2月16日第1刷発行
初出:「法律時報 二十三巻四・五号」
   1951(昭和26)年4月、5月
入力:sogo
校正:noriko saito
2008年8月10日作成
2019年5月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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