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善の研究

著者:西田幾多郎

ぜんのけんきゅう - にしだ きたろう

文字数:123,043 底本発行年:1937
著者リスト:
著者西田 幾多郎
底本: 善の研究
親本: 善の研究
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この書は余が多年、金沢なる第四高等学校において教鞭を執っていた間に書いたのである。 初はこの書の中、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐにも世に出そうという考であったが、病と種々の事情とに妨げられてその志を果すことができなかった。 かくして数年を過している中に、いくらか自分の思想も変り来り、従って余が志す所の容易に完成し難きを感ずるようになり、この書はこの書として一先ず世に出して見たいという考になったのである。

この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。 第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質をあきらかにしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。 第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。 第三編は前編の考を基礎として善を論じたつもりであるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。 第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。 この編は余が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終まで達したのである。 この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。

純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前からっていた考であった。 初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。 そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。

思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストにあざけらるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのもむを得ぬことであろう。

明治四十四年一月京都にて

西田幾多郎

[#改ページ]

再版の序

この書を出版してから既に十年余の歳月を経たのであるが、この書を書いたのはそれよりもなお幾年の昔であった。 京都に来てから読書と思索とにもっぱらなることを得て、余もいくらか余の思想を洗練し豊富にすることを得た。 従ってこの書に対しては飽き足らなく思うようになり、遂にこの書を絶版としようと思うたのである。 しかしその後諸方からこの書の出版を求められるのと、余がこの書の如き形において余の思想の全体を述べ得るのはなお幾年の後なるかを思い、再びこの書を世に出すこととした。 今度の出版に当りて、務台、世良の両文学士が余の為に字句の訂正と校正との労を執られたのは、余が両君に対し感謝に堪えざる所である。

大正十年一月西田幾多郎

[#改ページ]

版を新にするに当って

この書刷行を重ねること多く、文字も往々鮮明を欠くものがあるようになったので、今度書肆しょしにおいて版を新にすることになった。 この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考に過ぎない。 私はこの際この書に色々の点において加筆したいのであるが、思想はその時々に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加えようもない。 この書はこの書としてこのままとして置くの外はない。

今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。 しか非難せられても致方いたしかたはない。 しかしこの書を書いた時代においても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思う。 純粋経験の立場は「自覚における直観と反省」に至って、フィヒテの事行じこうの立場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。 そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。 「場所」の考は「弁証法的一般者」として具体化せられ、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場として直接化せられた。 この書において直接経験の世界とか純粋経験の世界とかいったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。 行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。

フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日うららかに花かおり鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方にふけったと自らいっている。

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善の研究 - 情報

善の研究

ぜんのけんきゅう

文字数 123,043文字

著者リスト:

底本 善の研究

親本 善の研究

青空情報


底本:「善の研究」岩波文庫、岩波書店
   1950(昭和25)年1月10日第1刷発行
   1979(昭和54)年10月16日第48刷改版発行
   1999(平成11)年10月25日第86刷発行
底本の親本:「善の研究」岩波書店
   1937(昭和12)年改版
初出:「善の研究」弘道館
   1911(明治44)年2月6日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※下村寅太郎氏による「解題」は省略しました。
入力:nns
校正:かとうかおり
2000年7月27日公開
2022年1月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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