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夜行巡査

著者:泉鏡花

やこうじゅんさ - いずみ きょうか

文字数:10,749 底本発行年:1971
著者リスト:
著者泉 鏡花
底本: 高野聖
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序章-章なし

「こうじいさん、おめえどこだ」と職人体の壮佼わかものは、そのかたわらなる車夫の老人に向かいて問いけたり。 車夫の老人は年紀としすでに五十を越えて、六十にも間はあらじと思わる。 餓えてや弱々しき声のしかも寒さにおののきつつ、

「どうぞまっぴら御免なすって、向後こうごきっと気を着けまする。 へいへい」

と、どぎまぎしてあわておれり。

「爺さん慌てなさんな。 こうおりゃ巡査じゃねえぜ。 え、おい、かわいそうによっぽど面食らったと見える、全体おめえ、気が小さすぎらあ。 なんの縛ろうとはやしめえし、あんなにびくびくしねえでものことさ。 おらあ片一方で聞いててせえ少癇癪すこかんしゃくさわってこたえられなかったよ。 え、爺さん、聞きゃおめえの扮装みなりが悪いとってとがめたようだっけが、それにしちゃあ咎めようが激しいや、ほかにおめえなんぞ仕損しぞこないでもしなすったのか、ええ、爺さん」

問われて老車夫は吐息をつき、

「へい、まことにびっくりいたしました。 巡査おまわりさんに咎められましたのは、親父おやじ今がはじめてで、はい、もうどうなりますることやらと、人心地ごこちもござりませなんだ。 いやもうから意気地いくじがござりません代わりにゃ、けっして後ろ暗いことはいたしません。 ただいまとても別にぶちょうほうのあったわけではござりませんが、股引ももひきが破れまして、ひざから下が露出むきだしでござりますので、見苦しいと、こんなにおっしゃります、へい、御規則も心得ないではござりませんが、つい届きませんもんで、へい、だしぬけにこら! ってわめかれましたのに驚きまして、いまだに胸がどきどきいたしまする」

壮佼はしきりにうなずけり。

「むむ、そうだろう。 気の小さい維新前むかしの者は得て巡的をこわがるやつよ。 なんだ、高がこれ股引きがねえからとって、ぎょうさんに咎め立てをするにゃあ当たらねえ。 主のかかぐるまじゃあるめえし、ふむ、よけいなおせっかいよ、なあ爺さん、向こうから謂わねえたって、この寒いのに股引きはこっちで穿きてえや、そこがめいめいの内証で穿けねえから、穿けねえのだ。 何も穿かねえというんじゃねえ。 しかもお提灯ちょうちんより見っこのねえ闇夜やみだろうじゃねえか、風俗も糸瓜へちまもあるもんか。 うぬが商売で寒い思いをするからたって、何も人民にあたるにゃあ及ばねえ。 ん! 寒鴉かんがらすめ。 あんなやつもめったにゃねえよ、往来の少ないところなら、昼だってひよぐるぐらいは大目に見てくれらあ、業腹な。 おらあ別に人の褌襠ふんどし相撲すもうを取るにもあたらねえが、これが若いものでもあることか、かわいそうによぼよぼの爺さんだ。 こう、腹あ立てめえよ、ほんにさ、このざまで腕車くるまくなあ、よくよくのことだと思いねえ。 チョッ、べら棒め、サーベルがなけりゃ袋叩ふくろだたきにしてやろうものを、威張るのもいいかげんにしておけえ。 へん、お堀端あこちとらのお成り筋だぞ、まかり間違やあ胴上げしてかものあしらいにしてやらあ」

口をきわめてすでに立ち去りたる巡査をののしり、満腔まんこうの熱気を吐きつつ、思わず腕をさすりしが、四谷組合としるしたるすす提灯ちょうちん蝋燭ろうそくを今継ぎ足して、力なげに梶棒かじぼうを取り上ぐる老車夫の風采ふうさいを見て、壮佼わかものは打ちしおるるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人かせぎてはおめえばかりか、孫子はねえのかい」

優しくわれて、老車夫は涙ぐみぬ。

「へい、ありがとう存じます、いやも幸いと孝行なせがれが一人おりまして、ようかせいでくれまして、おまえさん、こんな晩にゃ行火あんかを抱いて寝ていられるもったいない身分でござりましたが、せがれはな、おまえさん、この秋兵隊に取られましたので、あとには嫁と孫が二人みんな快う世話をしてくれますが、なにぶん活計くらしが立ちかねますので、かえるの子は蛙になる、親仁おやじももとはこの家業をいたしておりましたから、年紀としは取ってもちっとは呼吸がわかりますので、せがれの腕車くるまをこうやってきますが、何が、達者で、きれいで、安いという、三拍子もそろったのが競争をいたしますのに、私のような腕車には、それこそお茶人か、よっぽど後生のよいお客でなければ、とても乗ってはくれませんで、稼ぐに追い着く貧乏なしとはいいまするが、どうしていくら稼いでもその日を越すことができにくうござりますから、自然なりなんぞも構うことはできませんので、つい、巡査おまわりさんに、はい、お手数をけるようにもなりまする」

いと長々しき繰り言をまだるしとも思わで聞きたる壮佼は一方ひとかたならず心を動かし、

「爺さん、いやたあ謂われねえ、むむ、もっともだ。 聞きゃ一人息子むすこが兵隊になってるというじゃねえか、おおかた戦争にも出るんだろう、そんなことなら黙っていないで、どしどし言いめてひまつぶさした埋め合わせに、酒代さかてでもふんだくってやればいいに」

「ええ、めっそうな、しかし申しわけのためばかりに、そのことも申しましたなれど、いっこうおき入れがござりませんので」

序章-章なし
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夜行巡査 - 情報

夜行巡査

やこうじゅんさ

文字数 10,749文字

著者リスト:
著者泉 鏡花

底本 高野聖

青空情報


底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
   1999(平成11)年2月10日改版40版発行
初出:「文芸倶楽部」
   1895(明治28)年4月
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
1999年9月10日公開
2005年12月4日修正
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