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思い出す事など

著者:夏目漱石

おもいだすことなど - なつめ そうせき

文字数:56,463 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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ようやくの事でまた病院まで帰って来た。 思い出すとここで暑い朝夕あさゆうを送ったのももう三カ月の昔になる。 そのころは二階のひさしから六尺に余るほどの長い葭簀よしず日除ひよけに差し出して、ほてりの強い縁側えんがわ幾分いくぶんか暗くしてあった。 その縁側に是公ぜこうから貰ったかえで盆栽ぼんさいと、時々人の見舞に持って来てくれる草花などを置いて、退屈もしのぎ暑さもまぎらしていた。 むこうに見える高い宿屋の物干ものほし真裸まっぱだかの男が二人出て、日盛ひざかりを事ともせず、欄干らんかんの上をあぶなく渡ったり、または細長い横木の上にわざと仰向あおむけに寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんなたくましい体格になって見たいとうらやんだ事もあった。 今はすべてが過去に化してしまった。 再び眼の前に現れぬと云う不慥ふたしかな点において、夢と同じくはかない過去である。

病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。 けれども、転地先で再度のやまいかかって、寝たまま東京へ戻ってようとは思わなかった。 東京へ戻ってもすぐ自分の家の門はくぐらずに釣台つりだいに乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。

帰る日は立つ修善寺しゅぜんじも雨、着く東京も雨であった。 たすけられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼にらなかった。 目礼もくれいをする事のできたのはそのうちの二三に過ぎなかった。 思うほどの会釈えしゃくもならないうちに余は早く釣台の上によこたえられていた。 黄昏たそがれの雨を防ぐために釣台には桐油とうゆを掛けた。 余はあなの底に寝かされたような心持で、時々暗い中で眼をいた。 鼻には桐油の臭がした。 耳には桐油をつ雨の音と、釣台に付添うて来るらしい人の声がかすかながらとぎれとぎれに聞えた。 けれども眼には何物も映らなかった。 汽車の中で森成もりなりさんが枕元まくらもと信玄袋しんげんぶくろの口にし込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。

釣台に野菊も見えぬ桐油かな

これはその時の光景を後から十七字にちぢめたものである。 余はこの釣台に乗ったまま病院の二階へげられて、三カ月ぜんに親しんだ白いベッドの上に、安らかにせた手足を延べた。 雨の音の多い静かな夜であった。 余の病室のあるむねには患者が三四名しかいないので、人声も自然絶え勝に、秋は修善寺よりもかえってひっそりしていた。

この静かなよい心地ここちよく白い毛布の中に二時間ほど送った時、余は看護婦から二通の電報を受取った。 一通を開けて見ると「無事御帰京を祝す」と書いてあった。 そうしてその差出人は満洲にいる中村是公なかむらぜこうであった。 他の一通を開けて見ると、やはり無事御帰京を祝すと云う文句で、前のと一字の相違もなかった。 余は平凡ながらこの暗合あんごうを面白く眺めつつ、誰が打ってくれたのだろうと考えて差出人の名前を見た。 ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。 ただかけた局が名古屋とあるのでようやく判断がついた。 ステトと云うのは、鈴木禎次すずきていじ鈴木時子すずきときこ頭文字かしらもじを組み合わしたもので、さいいもととそのおっとの事であった。 余は二ツの電報を折り重ねて、明朝あすまたきたるべき妻の顔を見たら、まずこの話をしようかと思い定めた。

病室は畳も青かった。 ふすまえてあった。 壁もあらたに塗ったばかりであった。 よろず居心よく整っていた。 杉本副院長が再度修善寺へ診察に来た時、畳替たたみがえをして待っていますと妻に云い置かれた言葉をすぐに思い出したほど奇麗きれいである。

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思い出す事など - 情報

思い出す事など

おもいだすことなど

文字数 56,463文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集7

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集7」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年4月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年6月26日公開
2011年1月13日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:思い出す事など

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