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著者:夏目漱石

もん - なつめ そうせき

文字数:139,168 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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宗助そうすけ先刻さっきから縁側えんがわ坐蒲団ざぶとんを持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐あぐらをかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。 秋日和あきびよりと名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄げたの響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。 肱枕ひじまくらをして軒から上を見上げると、奇麗きれいな空が一面にあおく澄んでいる。 その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法にくらべて見ると、非常に広大である。 たまの日曜にこうしてゆっくり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、まゆを寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、まぼ[#ルビの「まぼ」はママ]しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子しょうじの方を向いた。 障子の中では細君が裁縫しごとをしている。

「おい、好い天気だな」と話しかけた。 細君は、

「ええ」とったなりであった。 宗助も別に話がしたい訳でもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。 しばらくすると今度は細君の方から、

「ちっと散歩でもしていらっしゃい」と云った。 しかしその時は宗助がただうんと云う生返事なまへんじを返しただけであった。

二三分して、細君は障子しょうじ硝子ガラスの所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿をのぞいて見た。 夫はどう云う了見りょうけん両膝りょうひざを曲げて海老えびのように窮屈になっている。 そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、ひじはさまれて顔がちっとも見えない。

「あなたそんな所へ寝ると風邪かぜいてよ」と細君が注意した。 細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。

宗助は両肱の中で大きな眼をぱちぱちさせながら、

「寝やせん、大丈夫だ」と小声で答えた。

それからまた静かになった。 外を通る護謨車ゴムぐるまのベルの音が二三度鳴ったあとから、遠くで鶏の時音ときをつくる声が聞えた。 宗助は仕立したておろしの紡績織ぼうせきおりの背中へ、自然じねんと浸み込んで来る光線の暖味あたたかみを、襯衣シャツの下でむさぼるほどあじわいながら、表の音をくともなく聴いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、

御米およね近来きんらいきんの字はどう書いたっけね」と尋ねた。 細君は別にあきれた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず、

近江おうみおうの字じゃなくって」と答えた。

「その近江おうみおうの字が分らないんだ」

細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指ものさしを出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、

「こうでしょう」と云ったぎり、物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきりながめ入った。 宗助は細君の顔も見ずに、

「やっぱりそうか」と云ったが、冗談じょうだんでもなかったと見えて、別に笑もしなかった。 細君も近の字はまるで気にならない様子で、

「本当に好い御天気だわね」となかひとごとのように云いながら、障子を開けたまままた裁縫しごとを始めた。 すると宗助は肱で挟んだ頭を少しもたげて、

「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。

「なぜ」

「なぜって、いくら容易やさしい字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。 この間も今日こんにちこんの字で大変迷った。 紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。

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門 - 情報

もん

文字数 139,168文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集6

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年3月29日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集5」筑摩書房
   1971(昭和46)年
初出:「朝日新聞」
   1910(明治43)年3月1日〜6月12日
入力:柴田卓治
校正:高橋知仁
1999年4月22日公開
2015年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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