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道草

著者:夏目漱石

みちくさ - なつめ そうせき

文字数:144,330 底本発行年:1942
著者リスト:
著者夏目 漱石
底本: 道草
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健三けんぞうが遠い所から帰って来て駒込こまごめの奥に世帯しょたいを持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。 彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種のさびさえ感じた。

彼の身体からだには新らしくあとに見捨てた遠い国のにおいがまだ付着していた。 彼はそれをんだ。 一日も早くその臭をふるい落さなければならないと思った。 そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気が付かなかった。

彼はこうした気分をった人にありがちな落付おちつきのない態度で、千駄木せんだぎから追分おいわけへ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。

ある日小雨こさめが降った。 その時彼は外套がいとうも雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷ほんごうの方へ例刻に歩いて行った。 すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。 その人は根津権現ねづごんげんの裏門の坂をあがって、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十けん位先から既に彼の視線に入ったのである。 そうして思わず彼のをわきへそらさせたのである。

彼は知らん顔をしてその人のそばを通り抜けようとした。 けれども彼にはもう一遍この男の眼鼻立を確かめる必要があった。 それで御互が二、三間の距離に近づいた頃またひとみをその人の方角に向けた。 すると先方ではもうくに彼の姿をじっと見詰めていた。

往来はしずかであった。 二人の間にはただ細い雨の糸が絶間なく落ちているだけなので、御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかった。 健三はすぐ眼をそらしてまた真正面を向いたまま歩き出した。 けれども相手は道端に立ち留まったなり、少しも足を運ぶ気色けしきなく、じっと彼の通り過ぎるのを見送っていた。 健三はその男の顔が彼の歩調につれて、少しずつ動いて回るのに気が着いた位であった。

彼はこの男に何年会わなかったろう。 彼がこの男と縁を切ったのは、彼がまだ廿歳はたちになるかならない昔の事であった。 それから今日こんにちまでに十五、六年の月日が経っているが、その間彼らはついぞ一度も顔を合せた事がなかったのである。

彼の位地も境遇もその時分から見るとまるで変っていた。 黒いひげはやして山高帽をかぶった今の姿と坊主頭の昔の面影おもかげとを比べて見ると、自分でさえ隔世の感が起らないとも限らなかった。 しかしそれにしては相手の方があまりに変らな過ぎた。 彼はどう勘定しても六十五、六であるべきはずのその人の髪の毛が、何故なぜ今でも元の通り黒いのだろうと思って、心のうちで怪しんだ。 帽子なしで外出する昔ながらの癖を今でも押通しているその人の特色も、彼には異な気分を与える媒介なかだちとなった。

彼はもとよりその人に出会う事を好まなかった。 万一出会ってもその人が自分より立派な服装なりでもしていてくれればいと思っていた。 しかし今目前まのあたり見たその人は、あまり裕福な境遇にいるとは誰が見ても決して思えなかった。 帽子を被らないのは当人の自由としても、羽織はおりなり着物なりについて判断したところ、どうしても中流以下の活計を営んでいる町家ちょうかの年寄としか受取れなかった。 彼はその人の差していた洋傘こうもりが、重そうな毛繻子けじゅすであった事にまで気が付いていた。

その日彼は家へ帰っても途中で会った男の事を忘れ得なかった。 折々は道端へ立ち止まって凝と彼を見送っていたその人の眼付に悩まされた。 しかし細君には何にも打ち明けなかった。 機嫌のよくない時は、いくら話したい事があっても、細君に話さないのが彼の癖であった。 細君も黙っている夫に対しては、用事のほか決して口を利かない女であった。

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道草 - 情報

道草

みちくさ

文字数 144,330文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 道草

親本 漱石全集 第6巻

青空情報


底本:「道草」岩波文庫、岩波書店
   1942(昭和17)年8月25日第1刷発行
   1990(平成2)年4月16日第43刷改版発行
   1995(平成7)年2月15日第49刷発行
底本の親本:「漱石全集 第6巻」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「朝日新聞」
   1915(大正4)年6月3日〜9月14日
入力:らんむろ・さてぃ
校正:細渕紀子
1999年1月22日公開
2013年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:道草

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