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明暗

著者:夏目漱石

めいあん - なつめ そうせき

文字数:319,909 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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医者はさぐりを入れたあとで、手術台の上から津田つだおろした。

「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。 このまえさぐった時は、途中に瘢痕はんこん隆起りゅうきがあったので、ついそこがきどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日きょう疎通を好くするために、そいつをがりがりき落して見ると、まだ奥があるんです」

「そうしてそれが腸まで続いているんですか」

「そうです。 五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」

津田の顔には苦笑のうちに淡く盛り上げられた失望の色が見えた。 医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。 その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。 医者は自分の職業に対して虚言うそく訳に行かないんですから」という意味に受取れた。

津田は無言のまま帯をめ直して、椅子いすの背に投げ掛けられたはかまを取り上げながらまた医者の方を向いた。

「腸まで続いているとすると、なおりっこないんですか」

「そんな事はありません」

医者は活溌かっぱつにまた無雑作むぞうさに津田の言葉を否定した。 あわせて彼の気分をも否定するごとくに。

「ただいままでのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。 それじゃいつまでっても肉のあがりこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思ひとおもいにやるよりほかに仕方がありませんね」

「根本的の治療と云うと」

切開せっかいです。 切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。 すると天然自然てんねんしぜんかれためんの両側が癒着ゆちゃくして来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」

津田は黙って点頭うなずいた。 彼のそばには南側の窓下にえられた洋卓テーブルの上に一台の顕微鏡けんびきょうが載っていた。 医者と懇意な彼は先刻さっき診察所へ這入はいった時、物珍らしさに、それをのぞかせてもらったのである。 その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影ったようにあざやかに見える着色の葡萄状ぶどうじょうの細菌であった。

津田は袴を穿いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。 すると連想が急に彼の胸を不安にした。 診察所を出るべく紙入をふところに収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇ちゅうちょした。

「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細いみぞを全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」

「結核性なら駄目です。 それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」

津田は思わずまゆを寄せた。

わたしのは結核性じゃないんですか」

「いえ、結核性じゃありません」

津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上にえた。 医者は動かなかった。

「どうしてそれが分るんですか。 ただの診察で分るんですか」

「ええ。

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明暗 - 情報

明暗

めいあん

文字数 319,909文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集9

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集9」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年6月28日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月から1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年8月12日公開
2018年2月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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