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草枕

著者:夏目漱石

くさまくら - なつめ そうせき

文字数:84,089 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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山路やまみちを登りながら、こう考えた。

に働けばかどが立つ。 じょうさおさせば流される。 意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。 とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。 どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。 やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。 ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。 あれば人でなしの国へ行くばかりだ。 人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、つかの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。 ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。 あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするがゆえたっとい。

住みにくき世から、住みにくきわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、である。 あるは音楽と彫刻である。 こまかにえば写さないでもよい。 ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もく。 着想を紙に落さぬとも※(「王+膠のつくり」、第3水準1-88-22)きゅうそうおん胸裏きょうりおこる。 丹青たんせい画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさい絢爛けんらんおのずから心眼しんがんに映る。 ただおのが住む世を、かくかんじ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収めればる。 この故に無声むせいの詩人には一句なく、無色むしょくの画家には※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)せっけんなきも、かく人世じんせいを観じ得るの点において、かく煩悩ぼんのう解脱げだつするの点において、かく清浄界しょうじょうかい出入しゅつにゅうし得るの点において、またこの不同不二ふどうふじ乾坤けんこん建立こんりゅうし得るの点において、我利私慾がりしよく覊絆きはん掃蕩そうとうするの点において、――千金せんきんの子よりも、万乗ばんじょうの君よりも、あらゆる俗界の寵児ちょうじよりも幸福である。

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐かいある世と知った。 二十五年にして明暗は表裏ひょうりのごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。 三十の今日こんにちはこう思うている。 ――喜びの深きときうれいいよいよ深く、たのしみの大いなるほど苦しみも大きい。 これを切り放そうとすると身が持てぬ。 かたづけようとすれば世が立たぬ。 金は大事だ、大事なものがえればも心配だろう。 恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。 閣僚の肩は数百万人の足をささえている。 背中せなかには重い天下がおぶさっている。 うまい物も食わねば惜しい。 少し食えばらぬ。 存分食えばあとが不愉快だ。 ……

かんがえがここまで漂流して来た時に、余の右足うそくは突然すわりのわるい角石かくいしはしを踏みくなった。 平衡へいこうを保つために、すわやと前に飛び出した左足さそくが、仕損しそんじのあわせをすると共に、余の腰は具合よくほう三尺ほどな岩の上にりた。

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草枕 - 情報

草枕

くさまくら

文字数 84,089文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集3

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
初出:「新小説」
   1906(明治39)年9月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年2月17日公開
2011年5月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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