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行人

著者:夏目漱石

こうじん - なつめ そうせき

文字数:222,065 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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序章-章なし

友達

梅田うめだ停車場ステーションりるやいなや自分は母からいいつけられた通り、すぐくるまやとって岡田おかだの家にけさせた。 岡田は母方の遠縁に当る男であった。 自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただうとい親類とばかり覚えていた。

大阪へ下りるとすぐ彼をうたのには理由があった。 自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地はんちで落ち合おう、そうしていっしょに高野こうや登りをやろう、もし時日じじつが許すなら、伊勢から名古屋へまわろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。

「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。 岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだあやしかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でもいから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。 友達は甲州線こうしゅうせん諏訪すわまで行って、それから引返して木曾きそを通ったあと、大阪へ出る計画であった。 自分は東海道を一息ひといきに京都まで来て、そこで四五日用足ようたしかたがた逗留とうりゅうしてから、同じ大阪の地を踏む考えであった。

予定の時日を京都でついやした自分は、友達の消息たよりを一刻も早く耳にするため停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかったのである。 けれどもそれはただ自分の便宜べんぎになるだけの、いわば私の都合に過ぎないので、先刻さっき云った母のいいつけとはまるで別物であった。 母が自分に向って、あちらへ行ったら何より先に岡田を尋ねるようにと、わざわざ荷になるほど大きい鑵入かんいりの菓子を、御土産おみやげだよとことわって、かばんの中へ入れてくれたのは、昔気質むかしかたぎ律儀りちぎからではあるが、その奥にもう一つ実際的の用件をひかえているからであった。

自分は母と岡田が彼らの系統上どんな幹の先へわかれて出た、どんな枝となって、互に関係しているか知らないくらいな人間である。 母から依託された用向についても大した期待も興味もなかった。 けれども久しぶりに岡田という人物――落ちついて四角な顔をしている、いくらひげを欲しがっても髭の容易に生えない、しかも頭の方がそろそろ薄くなって来そうな、――岡田という人物に会う方の好奇心は多少動いた。 岡田は今までに所用で時々出京した。 ところが自分はいつもかけ違って会う事ができなかった。 したがって強く酒精アルコールに染められたかれの四角な顔も見る機会を奪われていた。 自分はくるまの上で指を折って勘定して見た。 岡田がいなくなったのは、ついこの間のようでも、もう五六年になる。 彼の気にしていた頭も、この頃ではだいぶ危険にせまっているだろうと思って、そのいて見えるところを想像したりなどした。

岡田の髪の毛は想像した通り薄くなっていたが、住居すまいは思ったよりもさっぱりした新しい普請ふしんであった。

「どうも上方流かみがたりゅうで余計な所に高塀たかべいなんか築きあげて、陰気いんきで困っちまいます。 そのかわり二階はあります。 ちょっとあがって御覧なさい」と彼は云った。 自分は何より先に友達の事が気になるので、こうこういう人からまだ何とも通知は来ないかと聞いた。 岡田は不思議そうな顔をして、いいえと答えた。

自分は岡田に連れられて二階へあがって見た。 当人が自慢するほどあって眺望ちょうぼうはかなり好かったが、縁側えんがわのない座敷の窓へ日が遠慮なく照り返すので、暑さは一通りではなかった。 とこにかけてある軸物じくものっくり返っていた。

「なに日が射すためじゃない。 ねん年中ねんじゅうかけ通しだから、のりの具合でああなるんです」と岡田は真面目まじめに弁解した。

「なるほどうめうぐいすだ」と自分も云いたくなった。 彼は世帯を持つ時の用意に、このふくを自分の父からもらって、大得意で自分のへやへ持って来て見せたのである。 その時自分は「岡田君この呉春ごしゅん偽物ぎぶつだよ。 それだからあの親父おやじが君にくれたんだ」と云って調戯からかい半分岡田を怒らした事を覚えていた。

序章-章なし
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行人 - 情報

行人

こうじん

文字数 222,065文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集7

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集7」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)4月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
※底本の誤植が疑われる箇所は、岩波文庫、新潮文庫、角川文庫の全てで確認できたもののみを修正し、注記した。
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年6月13日公開
2004年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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