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坑夫

著者:夏目漱石

こうふ - なつめ そうせき

文字数:141,417 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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序章-章なし

さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。 いつまで行っても松ばかりえていていっこう要領を得ない。 こっちがいくら歩行あるいたって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。 いっそ始めから突っ立ったまま松とにらめっをしている方が増しだ。

東京を立ったのは昨夕ゆうべの九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥くたびれて眠くなった。 泊る宿もなし金もないから暗闇くらやみ神楽堂かぐらどうあがってちょっと寝た。 何でも八幡様らしい。 寒くて目がめたら、まだ夜は明け離れていなかった。 それからのべつ平押ひらおしにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩くせいがない。

足はだいぶ重くなっている。 ふくはぎに小さい鉄の才槌さいづちしばり附けたように足掻あがきに骨が折れる。 あわせの尻は無論端折はしおってある。 その上洋袴下ズボンしたさえ穿いていないのだから不断なら競走でもできる。 が、こう松ばかりじゃ所詮しょせんかなわない。

掛茶屋がある。 葭簀よしずの影から見ると粘土ねばつちへっついに、さび茶釜ちゃがまが掛かっている。 床几しょうぎが二尺ばかり往来へみ出した上から、二三足草鞋わらじがぶら下がって、袢天はんてんだか、どてらだか分らない着物を着た男が背中をこちらへ向けて腰を掛けている。

休もうかな、そうかなと、通り掛りに横目でのぞき込んで見たら、例の袢天とどてらちゅうを行く男が突然こっちを向いた。 煙草たばこやにで黒くなった歯を、厚いくちびるの間から出して笑っている。 これはと少し気味が悪くなり掛ける途端とたんに、向うの顔は急に真面目まじめになった。 今まで茶店の婆さんとさる面白い話をしていて、何の気もつかずに、ついそのままの顔を往来へ向けた時に、ふと自分の面相にくわしたものと見える。 ともかく向うが真面目になったのでようやく安心した。 安心したと思うもなくまた気味が悪くなった。 男は真面目になった顔を真面目な場所にえたまま、白眼しろめの運動が気に掛かるほどの勢いで自分の口から鼻、鼻からひたいとじりじり頭の上へ登って行く。 鳥打帽のひさしまたいで、脳天まで届いたと思う頃また白眼がじりじり下へさがって来た。 今度は顔を素通りにして胸からへそのあたりまで来るとちょっと留まった。 臍の所には蟇口がまぐちがある。 三十二銭這入はいっている。 白い眼は久留米絣くるめがすりの上からこの蟇口をねらったまま、木綿もめん兵児帯へこおびを乗り越してやっと股倉またぐらへ出た。 股倉から下にあるものは空脛からすねばかりだ。 いくら見たって、見られるようなものはいちゃいない。 ただ不断より少々重たくなっている。 白い眼はその重たくなっている所を、わざっと、じりじり見て、とうとう親指のあとが黒くついた俎下駄まないたげたの台までくだって行った。

こう書くと、何だか、長く一所ひとところに立っていて、さあ御覧下さいと云わないばかりに振舞ったように思われるがそうじゃない。 実は白い眼の運動が始まるやいなや急に茶店へ休むのがいやになったから、すたすた歩き出したつもりである。 にもかかわらず、このつもりが少々覚束おぼつかなかったと見えて、自分が親指にまむしをこしらえて、俎下駄をねじ間際まぎわには、もう白い眼の運動は済んでいた。 残念ながら向うは早いものである。 じりじり見るんだから定めし手間が掛かるだろうと思ったら大間違い。 じりじりには相違ない、どこまでも落ちついている。

序章-章なし
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坑夫 - 情報

坑夫

こうふ

文字数 141,417文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集4

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月13日公開
2004年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:坑夫

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