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薤露行

著者:夏目漱石

かいろこう - なつめ そうせき

文字数:19,815 底本発行年:1930
著者リスト:
著者夏目 漱石
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序章-章なし

世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄素樸そぼくという点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫のそしりは免がれぬ。 まして材をその一局部に取ってまとまったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。 従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。 主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。 そのつもりで読まれん事を希望する。

実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。 この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。 テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台におどらせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するにはおおいに参考すべき長詩であるはいうまでもない。 元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似まねがしたくなるからやめた。

一 夢

百、二百、むらがる騎士は数をつくして北のかたなる試合へと急げば、石にりたるカメロットのやかたには、ただ王妃ギニヴィアの長くころもすそひびきのみ残る。

薄紅うすくれないの一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明らさまなるに、もすそのみはかろさばたまくつをつつみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。 登り詰めたるきざはしの正面には大いなる花を鈍色にびいろの奥に織り込める戸帳とばりが、人なきをかこち顔なる様にてそよとも動かぬ。 ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をかく。 聴きおわりたる横顔をまた真向まむこうえして石段の下を鋭どき眼にてうかがう。 こまやかにを流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇ばらが暗きをれてやわらかきかおりを放つ。 君見よとよいに贈れる花輪のいつくだけたる名残なごりか。 しばらくはわが足にまつわる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、と立ち直りて、ほそき手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、まばゆき光り矢の如く向い側なるしつの中よりギニヴィアのかしらいただける冠を照らす。 輝けるは眉間みけんあたる金剛石ぞ。

「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。 天をはばかり、地を憚かる中に、身も世もらぬまで力のこもりたる声である。 恋に敵なければ、わが戴ける冠をおそれず。

「ギニヴィア!」とこたえたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。 広き額を半ばうずめてまたき返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、ほおの色はり合わず蒼白あおじろい。

女は幕をひく手をつと放して内にる。 裂目さけめを洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立きわだちて見える。 左右に開く廻廊には円柱まるばしらの影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。 生きたるは室の中なる二人のみと思わる。

「北のかたなる試合にも参り合せず。 乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。 晴れかかりたるまゆに晴れがたき雲のわだかまりて、弱きわらいいてうれいうちより洩れきたる。

「贈りまつれる薔薇のいて」とのみにて男は高き窓より表のかたを見やる。 折からの五月である。 館をめぐりてゆるく江に千本の柳が明かに影を※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)ひたして、空にくずるる雲の峰さえ水の底に流れ込む。 動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。 河を隔てて隠れに白く※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)く筋の、一縷いちるの糸となってけむりに入るは、立ちのぼる朝日影にひづめちりを揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北のかたへと飛ばせたる本道である。

「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈るき身ぞ。 君一人館に残る今日を忍びて、今日のみのえにしとならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚さんごの唇をぴりぴりと動かす。

「今日のみの縁とは? 墓にかるるあの世までもかわらじ」と男は黒きひとみを返して女の顔をじっと見る。

序章-章なし
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薤露行 - 情報

薤露行

かいろこう

文字数 19,815文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 倫敦塔・幻影の盾 他五篇

青空情報


底本:「倫敦塔・幻影の盾 他五篇」岩波文庫、岩波書店
   1930(昭和5)年12月20日第1刷発行
   1990(平成2)年4月16日第23刷改版発行
   1997(平成9)年1月16日第29刷発行
※校正には、1997(平成9)年9月5日発行の第30刷を使用した。
入力:鈴木厚司
校正:藤本篤子
1999年3月6日公開
2004年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:薤露行

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