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変な音

著者:夏目漱石

へんなおと - なつめ そうせき

文字数:3,747 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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うとうとしたと思ううちに眼がめた。 すると、隣のへやで妙な音がする。 始めは何の音ともまたどこから来るとも判然はっきりした見当けんとうがつかなかったが、聞いているうちに、だんだん耳の中へまとまった観念ができてきた。 何でも山葵わさびおろしで大根だいこかなにかをごそごそっているに違ない。 自分はたしかにそうだと思った。 それにしても今頃何の必要があって、隣りの室で大根おろしをこしらえているのだか想像がつかない。

いい忘れたがここは病院である。 まかないはるか半町も離れた二階下の台所に行かなければ一人もいない。 病室では炊事割烹すいじかっぽうは無論菓子さえ禁じられている。 まして時ならぬ今時分いまじぶん何しに大根だいこおろしをこしらえよう。 これはきっと別の音が大根おろしのように自分に聞えるのにきまっていると、すぐ心のうちさとったようなものの、さてそれならはたしてどこからどうして出るのだろうと考えるとやッぱり分らない。

自分は分らないなりにして、もう少し意味のある事に自分の頭を使おうと試みた。 けれども一度耳についたこの不可思議な音は、それが続いて自分の鼓膜こまくに訴える限り、妙に神経にたたって、どうしても忘れる訳に行かなかった。 あたりはしんとして静かである。 このむねに不自由な身を託した患者は申し合せたように黙っている。 寝ているのか、考えているのか話をするものは一人もない。 廊下を歩く看護婦の上草履うわぞうりの音さえ聞えない。 その中にこのごしごしと物をり減らすようなな響だけが気になった。

自分のへやはもと特等として二間ふたまつづきに作られたのを病院の都合で一つずつに分けたものだから、火鉢ひばちなどの置いてある副室の方は、普通の壁が隣の境になっているが、寝床の敷いてある六畳の方になると、東側に六尺の袋戸棚ふくろとだながあって、そのわき芭蕉布ばしょうふふすまですぐ隣へ往来ゆきかよいができるようになっている。 この一枚の仕切をがらりと開けさえすれば、隣室で何をしているかはたやすく分るけれども、他人に対してそれほどの無礼をあえてするほど大事な音でないのは無論である。 折から暑さに向う時節であったから縁側えんがわは常に明け放したままであった。 縁側はもとよりむねいっぱい細長く続いている。 けれども患者が縁端えんばたへ出て互を見透みとおす不都合を避けるため、わざと二部屋毎に開き戸を設けて御互の関とした。 それは板の上へ細いさんを十文字に渡した洒落しゃれたもので、小使が毎朝拭掃除ふきそうじをするときには、下からかぎを持って来て、一々この戸を開けて行くのが例になっていた。 自分は立って敷居の上に立った。 かの音はこの妻戸つまどうしろから出るようである。 戸の下は二寸ほどいていたがそこには何も見えなかった。

この音はそのもよく繰返くりかえされた。 ある時は五六分続いて自分の聴神経を刺激する事もあったし、またある時はそのなかばにも至らないでぱたりとやんでしまう折もあった。 けれどもその何であるかは、ついに知る機会なく過ぎた。 病人は静かな男であったが、折々夜半よなかに看護婦を小さい声で起していた。 看護婦がまた殊勝しゅしょうな女で小さい声で一度か二度呼ばれると快よいやさしい「はい」と云う受け答えをして、すぐ起きた。 そうして患者のために何かしている様子であった。

ある日回診の番が隣へ廻ってきたとき、いつもよりはだいぶ手間がかかると思っていると、やがて低い話し声が聞え出した。 それが二三人で持ち合ってなかなか捗取はかどらないような湿しめを帯びていた。 やがて医者の声で、どうせ、そう急には御癒おなおりにはなりますまいからと云った言葉だけが判然はっきり聞えた。 それから二三日して、かの患者の室にこそこそ出入ではいりする人の気色けしきがしたが、いずれもおのれの活動する立居たちいを病人に遠慮するように、ひそやかにふるまっていたと思ったら、病人自身も影のごとくいつの間にかどこかへ行ってしまった。 そうしてそのあとへはすぐあくる日から新しい患者が入って、入口の柱に白く名前を書いた黒塗の札が懸易かけかえられた。 例のごしごし云う妙な音はとうとう見極みきわめる事ができないうちに病人は退院してしまったのである。

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変な音 - 情報

変な音

へんなおと

文字数 3,747文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集10

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年5月12日公開
2011年6月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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