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袈裟と盛遠

著者:芥川龍之介

けさともりとお - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:7,519 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

夜、盛遠もりとお築土ついじの外で、月魄つきしろを眺めながら、落葉おちばを踏んで物思いに耽っている。

その独白

「もう月の出だな。 いつもは月が出るのを待ちかねるおれも、今日ばかりは明くなるのがそら恐しい。 今までの己が一夜のうちに失われて、明日あすからは人殺になり果てるのだと思うと、こうしていても、体が震えて来る。 この両の手が血で赤くなった時を想像して見るがい。 その時のおれは、己自身にとって、どのくらいのろわしいものに見えるだろう。 それも己の憎む相手を殺すのだったら、己は何もこんなに心苦しい思いをしなくてもすんだのだが、己は今夜、己の憎んでいない男を殺さなければならない。

己はあの男を以前から見知っている。 渡左衛門尉わたるさえもんのじょうと云う名は、今度の事に就いて知ったのだが、男にしてはやさしすぎる、色の白い顔を見覚えたのは、いつの事だかわからない。 それが袈裟けさの夫だと云う事を知った時、己が一時嫉妬を感じたのは事実だった。 しかしその嫉妬も今では己の心の上に何一つ痕跡こんせきを残さないで、綺麗に消え失せてしまっている。 だからわたるは己にとって、恋のかたきとは云いながら、憎くもなければ、恨めしくもない。 いや、むしろ、己はあの男に同情していると云っても、よいくらいだ。 衣川ころもがわの口から渡が袈裟を得るために、どれだけ心を労したかを聞いた時、己は現にあの男を可愛かわゆく思った事さえある。 渡は袈裟を妻にしたい一心で、わざわざ歌の稽古までしたと云う事ではないか。 己はあの生真面目きまじめな侍の作った恋歌れんかを想像すると、知らず識らず微笑が唇に浮んで来る。 しかしそれは何も、渡をあざける微笑ではない。 己はそうまでして、女にびるあの男をいじらしく思うのだ。 あるいは己の愛している女に、それほどまでに媚びようとするあの男の熱情が、愛人たる己にある種の満足を与えてくれるからかも知れない。

しかしそう云えるほど、己は袈裟を愛しているだろうか。 己と袈裟との間の恋愛は、今と昔との二つの時期に別れている。 己は袈裟がまだ渡に縁づかない以前に、既に袈裟を愛していた。 あるいは愛していると思っていた。 が、これも今になって考えると、その時の己の心もちには不純なものも少くはない。 己は袈裟に何を求めたのか、童貞だった頃の己は、明らかに袈裟の体を求めていた。 もし多少の誇張を許すなら、己の袈裟に対する愛なるものも、実はこの欲望を美しくした、感傷的な心もちに過ぎなかった。 それが証拠には、袈裟との交渉が絶えたその後の三年間、成程なるほど己はあの女の事を忘れずにいたにちがいないが、もしその以前に己があの女の体を知っていたなら、それでもやはり忘れずに思いつづけていたであろうか。 己は恥しながら、然りと答える勇気はない。 己が袈裟に対するその後の愛着の中には、あの女の体を知らずにいる未練みれんがかなり混っている。 そうして、その悶々もんもんの情をいだきながら、己はとうとう己の恐れていた、しかも己の待っていた、この今の関係にはいってしまった。 では今は? 己は改めて己自身に問いかけよう。 己は果して袈裟を愛しているだろうか。

が、その答をする前に、己はまだ一通り、いやでもこう云ういきさつを思い出す必要がある。 ――渡辺の橋の供養の時、三年ぶりで偶然袈裟にめぐり遇った己は、それからおよそ半年ばかりの間、あの女と忍び合う機会を作るために、あらゆる手段を試みた。 そうしてそれに成功した。 いや、成功したばかりではない、その時、おれは、己が夢みていた通り、袈裟けさの体を知る事が出来た。 が、当時の己を支配していたものは、必しも前に云った、まだあの女の体を知らないと云う未練ばかりだった訳ではない。

序章-章なし
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袈裟と盛遠 - 情報

袈裟と盛遠

けさともりとお

文字数 7,519文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集2

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月23日公開
2004年3月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:袈裟と盛遠

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