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うたかたの記

著者:森鴎外

うたかたのき - もり おうがい

文字数:15,294 底本発行年:1971
著者リスト:
著者森 鴎外
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幾頭の獅子ししける車の上に、いきおいよく突立ちたる、女神にょしんバワリアの像は、先王ルウドヰヒ第一世がこの凱旋門がいせんもんゑさせしなりといふ。 そのもとよりルウドヰヒ町を左に折れたる処に、トリエント産の大理石にてきずきおこしたるおほいへあり。 これバワリアの首府に名高き見ものなる美術学校なり。 校長ピロッチイが名は、をちこちに鳴りひびきて、独逸ドイツの国々はいふもさらなり、新希臘ギリシア伊太利イタリア※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)デンマークなどよりも、ここにきたりつどへる彫工ちょうこう、画工数を知らず。 日課をへてのちは、学校の向ひなる、「カッフェエ・ミネルワ」といふ店に入りて、珈琲カッフェーのみ、酒くみかはしなどして、おもひおもひのたわぶれす。 こよひも瓦斯燈ガスとうの光、半ば開きたる窓に映じて、内には笑ひさざめく声聞ゆるをり、かどにきかかりたる二人あり。

先に立ちたるは、かち色のかみのそそけたるをいとはず、幅広き襟飾えりかざりななめに結びたるさま、が目にも、ところの美術諸生しょせいと見ゆるなるべし。 どまりて、あとなる色黒き小男に向ひ、「ここなり」といひて、戸口をあけつ。

先づ二人がおもてつはたばこのけぶりにて、にわかに入りたる目には、なかなる人をも見わきがたし。 日は暮れたれど暑き頃なるに、窓ことごとくあけはなちはせで、かかる烟の中に居るも、ならいとなりたるなるべし。 「エキステルならずや、いつの間にか帰りし。」 「なほ死なでありつるよ。」 など口々に呼ぶを聞けば、かの諸生はこのむれにて、馴染なじみあるものならむ。 その間、あたりなる客は珍らしげに、後につきて入来いりきたれる男を見つめたり。 見つめらるる人は、座客ざかくのなめなるを厭ひてか、しば眉根まゆねしわ寄せたりしが、とばかり思ひかへししにや、わずかえみを帯びて、一座を見度みわたしぬ。

この人は今着きし汽車にて、ドレスデンより来にければ、茶店ちゃみせのさまの、かしことこことことなるに目を注ぎぬ。 大理石の円卓まるづくえ幾つかあるに、白布しらぬの掛けたるは、夕餉ゆうげ畢りしあとをまだ片附けざるならむ。 裸なる卓にれる客の前に据ゑたる土やきのさかずきあり。 盃は円筒形えんとうがたにて、燗徳利かんどくり四つ五つも併せたるおおいさなるに、弓なりのとり手つけて、金蓋かなふた蝶番ちょうつがいに作りておおひたり。 客なき卓に珈琲わん置いたるを見れば、みなさかしまに伏せて、糸底いとぞこの上に砂糖、幾塊いくかたまりか盛れる小皿載せたるもをかし。

客はみなりも言葉もさまざまなれど、髪もけづらず、服もととのへぬは一様なり。 されどあながち卑しくも見えぬは、さすが芸術世界に遊べるからにやあるらむ。 中にも際立きわだちてにぎわしきは中央なる大卓おおづくえを占めたる一群ひとむれなり。 よそには男客のみなるに、ひとりここには少女おとめあり。 今エキステルに伴はれてし人と目を合はせて、互に驚きたるごとし。

来し人はこの群に珍らしき客なればにや。 また少女の姿は、初めてひし人を動かすにあまりあらむ。 前庇まえびさし広く飾なきぼうぶりて、年は十七、八ばかりと見ゆるかんばせ、ヱヌスの古彫像をあざむけり。 そのふるまひにはおのずか気高けだかき処ありて、かいなでの人と覚えず。 エキステルが隣の卓なる一人の肩をちて、何事をかかたりゐたるを呼びて、「こなたには面白き話一つする人なし。 この様子にては骨牌カルタのが球突たまつきに走るなど、いまはしき事を見むも知られず。 おん連れの方と共に、こなたへ来たまはずや。」 と笑みつつすすむる、その声の清きに、いま来し客は耳かたぶけつ。

「マリイの君のゐ玉ふ処へ、たれか行かざらむ。 人々も聞け、けふこの『ミネルワ』の仲間に入れむとてともなひたるは、巨勢こせ君とて、遠きやまとの画工なり。」 とエキステルに紹介せられて、随来したがいきぬる男の近寄りて会釈えしゃくするに、ちて名告なのりなどするは、外国人とつくにびとのみ。 さらぬは坐したるままにて答ふれど、あなどりたるにもあらず、この仲間のくせなるべし。

エキステル、「わがドレスデンなる親族みうちたずねにゆきしは人々も知りたり。 巨勢君にはかしこなる画堂にて逢ひ、それよりまじわりを結びて、こたび巨勢君、ここなる美術学校に、しばし足をとどめむとて、旅立ち玉ふをり、われもともにかへりに上りぬ。」

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うたかたの記 - 情報

うたかたの記

うたかたのき

文字数 15,294文字

著者リスト:
著者森 鴎外

底本 舞姫・うたかたの記 他三篇 (2)

親本 鴎外全集 第二巻

青空情報


底本:「舞姫・うたかたの記 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年1月16日初版発行
   1999(平成11)年7月15日36刷
底本の親本:「鴎外全集 第二巻」岩波書店
   1971(昭和46)年12月初版発行
初出:「柵草紙」
   1890(明治23)年8月
入力:よしだひとみ
校正:松永正敏
2000年7月18日公開
2011年8月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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