• URLをコピーしました!

著者:芥川龍之介

かげ - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:10,215 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
0
0
0


序章-章なし

横浜よこはま

日華洋行にっかようこうの主人陳彩ちんさいは、机に背広の両肘りょうひじもたせて、火の消えた葉巻はまきくわえたまま、今日もうずたかい商用書類に、繁忙な眼をさらしていた。

更紗さらさの窓掛けを垂れた部屋の内には、不相変あいかわらず残暑の寂寞せきばくが、息苦しいくらい支配していた。 その寂寞を破るものは、ニスの※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においのする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。

書類が一山片づいたのちちんはふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。

わたしうちへかけてくれ給え。」

陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。

「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。 ――房子ふさこかい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。 ――帰れないか?――とても汽車にに合うまい。 ――じゃ頼むよ。 ――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。 よろしい。 さようなら。」

陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸マッチって、啣えていた葉巻を吸い始めた。

……煙草の煙、草花の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)におい、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧きのぼる調子はずれのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒ビールを前にしながら、たった一人茫然と、テーブルに肘をついている。 彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。 が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。

女はまだ見た所、二十はたちを越えてもいないらしい。 それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、せわしそうにビルを書いている。 額のき毛、かすかな頬紅ほおべに、それから地味な青磁色せいじいろの半襟。 ――

陳は麦酒ビールを飲み干すと、おもむろに大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。

「陳さん。 いつ私に指環を買って下すって?」

女はこう云う間にも、依然として鉛筆を動かしている。

「その指環がなくなったら。」

陳は小銭こぜにを探りながら、女の指へあごを向けた。 そこにはすでに二年前から、延べのきん両端りょうはしかせた、約婚の指環がはまっている。

「じゃ今夜買って頂戴。」

女は咄嗟とっさに指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。

「これは護身用の指環なのよ。」

カッフェのそとのアスファルトには、涼しい夏の夜風が流れている。 陳は人通りにまじりながら、何度も町の空の星を仰いで見た。 その星も皆今夜だけは、……

誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ陳彩ちんさいの心をび返した。

「おはいり。」

その声がまだ消えない内に、ニスの※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)のする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の今西いまにしが、無気味ぶきみなほど静にはいって来た。

「手紙が参りました。」

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

影 - 情報

かげ

文字数 10,215文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集4

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!