序章-章なし
このあいびきは先年仏蘭西で死去した、露国では有名な小説家、ツルゲーネフという人の端物の作です。
今度徳富先生の御依頼で訳してみました。
私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、これでも原文はきわめておもしろいです。
秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。
今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。
あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧し気に見える人の眼のごとくに朗かに晴れた蒼空がのぞかれた。
自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。
木の葉が頭上で幽かに戦いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。
それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌りでもなかッたが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった。
そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた。
照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変ッた。
あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈なくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢を帯び、地上に散り布いた、細かな、落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような「パアポロトニク」(蕨の類い)のみごとな茎、しかも熟えすぎた葡萄めく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。
あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、瞬く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまだ日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにパラパラと降ッて通ッた。
樺の木の葉はいちじるしく光沢は褪めていてもさすがになお青かッた、がただそちこちに立つ稚木のみはすべて赤くも黄ろくも色づいて、おりおり日の光りが今ま雨に濡れたばかりの細枝の繁味を漏れて滑りながらに脱けてくるのをあびては、キラキラときらめいていた。
鳥は一ト声も音を聞かせず、皆どこにか隠れて窃まりかえッていたが、ただおりふしに人をさみした白頭翁の声のみが、故鈴でも鳴らすごとくに、響きわたッた。
この樺の林へ来るまえに、自分は猟犬を曳いて、さる高く茂ッた白楊の林を過ぎたが、この樹は――白揚は――ぜんたい虫がすかぬ。
幹といえば、蒼味がかッた連翹色で、葉といえば、鼠みともつかず緑りともつかず、下手な鉄物細工を見るようで、しかも長いっぱいに頸を引き伸して、大団扇のように空中に立ちはだかッて――どうも虫が好かぬ。
長たらしい茎へ無器用にヒッつけたような薄きたない円葉をうるさく振りたてて――どうも虫が好かぬ。
この樹の見て快よい時といっては、ただ背びくな灌木の中央に一段高く聳えて、入り日をまともに受け、根本より木末に至るまでむらなく樺色に染まりながら、風に戦いでいる夏の夕暮か、――さなくば空名残りなく晴れわたッて風のすさまじく吹く日、あおそらを影にして立ちながら、ザワザワざわつき、風に吹きなやまされる木の葉の今にも梢をもぎ離れて遠く吹き飛ばされそうに見える時かで。
とにかく自分はこの樹を好まぬので、ソコデその白楊の林には憩わず、わざわざこの樺の林にまで辿りついて、地上わずか離れて下枝の生えた、雨凌ぎになりそうな木立を見たてて、さてその下に栖を構え、あたりの風景を跳めながら、ただ遊猟者のみが覚えのあるという、例の穏かな、罪のない夢を結んだ。
何ン時ばかり眠ッていたか、ハッキリしないが、とにかくしばらくして眼を覚ましてみると、林の中は日の光りが到らぬ隈もなく、うれしそうに騒ぐ木の葉を漏れて、はなやかに晴れた蒼空がまるで火花でも散らしたように、鮮かに見わたされた。
雲は狂い廻わる風に吹き払われて形を潜め、空には繊雲一ツだも留めず、大気中に含まれた一種清涼の気は人の気を爽かにして、穏かな晴夜の来る前触れをするかと思われた。
自分はまさに起ち上りてまたさらに運だめし(ただし銃猟の事で)をしようとして、フト端然と坐している人の姿を認めた。
眸子を定めてよく見れば、それは農夫の娘らしい少女であッた。
二十歩ばかりあなたに、物思わし気に頭を垂れ、力なさそうに両の手を膝に落して、端然と坐していた。
旁々の手を見れば、半はむきだしで、その上に載せた草花の束ねが呼吸をするたびに縞のペチコートの上をしずかにころがッていた。
清らかな白の表衣をしとやかに着なして、咽喉元と手頸のあたりでボタンをかけ、大粒な黄ろい飾り玉を二列に分ッて襟から胸へ垂らしていた。
この少女なかなかの美人で、象牙をも欺むく色白の額ぎわで巾の狭い緋の抹額を締めていたが、その下から美しい鶉色で、しかも白く光る濃い頭髪を叮嚀に梳したのがこぼれでて、二ツの半円を描いて、左右に別れていた。
顔の他の部分は日に焼けてはいたが、薄皮だけにかえって見所があった。
眼ざしは分らなかッた、――始終下目のみ使っていたからで、シカシその代り秀でた細眉と長い睫毛とは明かに見られた。
睫毛はうるんでいて、旁々の頬にもまた蒼さめた唇へかけて、涙の伝った痕が夕日にはえて、アリアリと見えた。
総じて首つきが愛らしく、鼻がすこし大く円すぎたが、それすらさのみ眼障りにはならなかッたほどで。
とり分け自分の気に入ッたはその面ざし、まことに柔和でしとやかで、とり繕ろッた気色は微塵もなく、さも憂わしそうで、そしてまたあどけなく途方に暮れた趣きもあッた。
たれをか待合わせているのとみえて、何か幽かに物音がしたかと思うと、少女はあわてて頭を擡げて、振り反ってみて、その大方の涼しい眼、牝鹿のもののようにおどおどしたのをば、薄暗い木蔭でひからせた。
クワッと見ひらいた眼を物音のした方へ向けて、シゲシゲ視詰めたまま、しばらく聞きすましていたが、やがて溜息を吐いて、静にこなたを振り向いて、前よりはひときわ低く屈みながら、またおもむろに花を択り分け初めた。
擦りあかめたまぶちに、厳しく拘攣する唇、またしても濃い睫毛の下よりこぼれでる涙の雫は流れよどみて日にきらめいた。
こうしてしばらく時刻を移していたが、その間少女は、かわいそうに、みじろぎをもせず、ただおりおり手で涙を拭いながら、聞きすましてのみいた、ひたすら聞きすましてのみいた……フとまたガサガサと物音がした、――少女はブルブルと震えた。
物音は罷まぬのみか、しだいに高まッて、近づいて、ついに思いきッた濶歩の音になると――少女は起きなおッた。
何となく心おくれのした気色。