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著者:江戸川乱歩

ゆび - えどがわ らんぽ

文字数:1,226 底本発行年:1961
著者リスト:
著者江戸川 乱歩
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序章-章なし

患者は手術の麻酔からめて私の顔を見た。

右手に厚ぼったく繃帯ほうたいが巻いてあったが、手首を切断されていることは、少しも知らない。

彼は名のあるピアニストだから、右手首がなくなったことは致命傷ちめいしょうであった。 犯人は彼の名声をねたむ同業者かもしれない。

彼は闇夜の道路で、行きずりの人に、鋭い刃物で右手首関節の上部から斬り落とされて、気を失ったのだ。

幸い私の病院の近くでの出来事だったので、彼は失神したまま、この病院に運びこまれ、私はできるだけの手当てをした。

「あ、君が世話をしてくれたのか。 ありがとう……酔っぱらってね、暗い通りで、誰かわからないやつにやられた……右手だね。 指は大丈夫だろうか」

「大丈夫だよ。 腕をちょっとやられたが、なに、じきに治るよ」

私は親友を落胆らくたんさせるに忍びず、もう少しよくなるまで、彼のピアニストとしての生涯が終わったことを、伏せておこうとした。

「指もかい。 指も元の通り動くかい」

「大丈夫だよ」

私は逃げ出すように、ベッドをはなれて病室を出た。

付添つきそいの看護婦にも、今しばらく、手首がなくなったことは知らせないように、固くいいつけておいた。

それから二時間ほどして、私は彼の病室を見舞った。

患者はやや元気をとり戻していた。 しかし、まだ自分の右手をあらためる力はない。 手首のなくなったことは知らないでいる。

「痛むかい」

私は彼の上に顔を出してたずねてみた。

「うん、よほど楽になった」

彼はそういって、私の顔をじっと見た。 そして、毛布の上に出していた左手の指を、ピアノを恰好かっこうで動かしはじめた。

「いいだろうか、右手の指を少し動かしても……新しい作曲をしたのでね、そいつを毎日一度やってみないと気がすまないんだ」

私はハッとしたが、咄嗟とっさに思いついて、患部を動かさないためと見せかけながら、彼の上膊じょうはくの尺骨神経の個所を、指でさえた。 そこを圧迫すると、指がなくても、あるような感覚を、脳中枢のうちゅうすうに伝えることができるからだ。

彼は毛布の上の左手の指を、気持よさそうに、しきりに動かしていたが、

「ああ、右の指は大丈夫だね。 よく動くよ」

と、つぶやきながら、夢中になって、架空の曲を弾きつづけた。

私は見るにたえなかった。 看護婦に、患者の右腕の尺骨神経を圧さえているように、目顔でさしずしておいて、足音を盗んで病室を出た。

そして手術室の前を通りかかると、一人の看護婦が、その部屋の壁にとりつけた棚を見つめて、突っ立っているのが見えた。

彼女の様子は普通ではなかった。 顔は青ざめ、眼は異様に大きくひらいて、棚にのせてある何かを凝視していた。

私は思わず手術室にはいって、その棚を見た。

序章-章なし
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指 - 情報

ゆび

文字数 1,226文字

著者リスト:

底本 江戸川乱歩全集 第22巻 ぺてん師と空気男

親本 江戸川乱歩全集 第三巻 (2)

青空情報


底本:「江戸川乱歩全集 第22巻 ぺてん師と空気男」光文社文庫、光文社
   2005(平成17)年9月20日初版1刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第三巻」桃源社
   1961(昭和36)年11月
初出:「ヒッチコック マガジン」宝石社
   1960(昭和35)年1月
※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。
入力:nami
校正:きゅうり
2018年5月27日作成
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