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孤島の鬼

著者:江戸川乱歩

ことうのおに - えどがわ らんぽ

文字数:180,499 底本発行年:2003
著者リスト:
著者江戸川 乱歩
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はしがき

私はまだ三十にもならぬに、濃い髪の毛が、一本も残らず真白まっしろになっている。 このような不思議な人間がほかにあろうか。 かつ白頭宰相はくとうさいしょうわれた人にも劣らぬ見事な綿帽子が、若い私の頭上にかぶさっているのだ。 私の身の上を知らぬ人は、私に会うと第一に私の頭に不審の目を向ける。 無遠慮な人は、挨拶あいさつがすむかすまぬに、ず私の白頭についていぶかしげに質問する。 これは男女にかかわらず私を悩ます所の質問であるが、その外にもう一つ、私の家内かないく親しい婦人けがそっと私に聞きに来る疑問がある。 少々無躾ぶしつけわたるが、それは私の妻の腰の左側のももの上部の所にある、恐ろしく大きな傷のあとについてである。 そこには不規則な円形の、大手術のあとかと見える、むごたらしい赤あざがあるのだ。

この二つの異様な事柄は、しかし、別段私達の秘密だと云うわけではないし、私は殊更ことさらにそれらのものの原因について語ることをこばむ訳でもない。 ただ、私の話を相手にわからせることが非常に面倒なのだ。 それについては実に長々しい物語があるのだし、又仮令たとえそのわずらわしさを我慢して話をして見た所で、私の話のし方が下手なせいもあろうけれど、聞手ききては私の話を容易に信じてはくれない。 大抵の人は「まさかそんなことが」と頭から相手にしない。 私が大法螺吹おおぼらふきか何ぞの様にう。 私の白頭と、妻の傷痕という、れっきとした証拠物があるにも拘らず、人々は信用しない。 それ程私達の経験した事柄というのは奇怪至極しごくなものであったのだ。

私は、嘗て「白髪鬼」という小説を読んだことがある。 それには、ある貴族が早過ぎた埋葬に会って、出るに出られぬ墓場の中で死の苦しみをめたため、一夜にして漆黒しっこくの頭髪が、ことごと白毛しらがと化した事が書いてあった。 又、鉄製のたるの中へ入ってナイヤガラのたき飛込とびこんだ男の話を聞いたことがある。 その男は仕合しあわせにも大した怪我けがもせず、瀑布ばくふを下ることが出来たけれど、その一刹那せつなに、頭髪がすっかり白くなってしまったよしである。 およそ、人間の頭髪を真白にしてしまうほどの出来事は、この様に、世にためしのない大恐怖か、大苦痛を伴っているものだ。 三十にもならぬ私のこの白頭も、人々が信用しねる程の異常事を、私が経験した証拠にはならないだろうか。 妻の傷痕にしても同じことが云える。 あの傷痕を外科医に見せたならば、彼はきっと、それが何故なにゆえの傷であるかを判断するに苦しむに相違ない。 あんな大きな腫物はれもののあとなんてあるはずがないし、筋肉の内部の病気にしても、これ程大きな切口を残す様なやぶ医者は何所どこにもないのだ。 けどにしては、治癒ちゆのあとが違うし、生れつきのあざでもない。 それは丁度ちょうどそこからもう一本足が生えていてそれを切り取ったらさだめしこんな傷痕が残るであろうと思われる様な、何かそんな風な変てこな感じを与える傷口なのだ。 これとてもまた、並大抵の異変で生じるものではないのである。

そんな訳で、私は、このことをう人ごとに聞かれるのが煩しいばかりでなく、折角せっかく身の上話をしても、相手が信用してくれない歯痒はがゆさもあるし、それに実を云うと私は、世人せじんかつて想像もしなかった様な、あの奇怪事を、――私達の経験した人外境じんがいきょうを、この世にはこんな恐ろしい事実もあるのだぞと、ハッキリと人々に告げ知らせい慾望もある。 そこで、例の質問をあびせられた時には、「それについては、私の著書に詳しく書いてあります。 どうかこれを読んで御疑いをはらして下さい」と云って、その人の前に差出すことの出来る様な、一冊の書物に、私の経験談を書き上げて見ようと、思立おもいたった訳である。

だが、何を云うにも、私には文章の素養がない。 小説が好きで読む方は随分ずいぶん読んでいるけれど、実業学校の初年級で作文を教わった以来、事務的な手紙の文章などのほかには、文章というものを書いたことがないのだ。 なに、今の小説を見るのに、ただ思ったことをダラダラと書いて行けばいいらしいのだから、私にだってあの位の真似まねは出来よう。 それに私のは作り話でなく、身をもって経験した事柄なのだから、一層いっそう書きやすいと云うものだ、などと、たかをくくって、さて書き出して見た所が、仲々なかなかそんな楽なものでないことが分って来た。 第一予想とは正反対に、物語が実際の出来事であるために、かえって非常に骨が折れる。 文章に不馴ふなれな私は、文章を駆使くしするのでなくて文章に駆使されて、つい余計よけいなことを書いてしまったり、必要なことが書けなかったりして、折角の事実が、世のつまらない小説よりも、一層作り話みたいになってしまう。 本当のことを本当らしく書くことさえ、どんなに難しいかということを、今更いまさらの様に感じたのである。

物語の発端ほったんけでも、私は二十回も、書いては破り書いては破りした。 そして、結局、私と木崎初代きざきはつよとの恋物語から始めるのが一番穏当だと思う様になった。

はしがき

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孤島の鬼 - 情報

孤島の鬼

ことうのおに

文字数 180,499文字

著者リスト:

底本 孤島の鬼 江戸川乱歩ベストセレクション⑦

親本 江戸川乱歩全集 第4巻 孤島の鬼

青空情報


底本:「孤島の鬼 江戸川乱歩ベストセレクション」角川ホラー文庫、角川書店
   2009(平成21)年7月25日初版発行
   2011(平成23)年6月5日4版発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第4巻 孤島の鬼」光文社文庫、光文社
   2003(平成15)年8月20日初版1刷発行
初出:「朝日」博文館
   1929(昭和4)年1月号〜1930(昭和5)年2月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「痕(あと)」と「跡(あと)」、「嘗て」と「嘗つて」、「却(かえ)って」と「却(かえっ)て」、「甚(はなはだ)しい」と「甚(はなは)だしい」、「恰好」と「格好」、「気持ち」と「気持」、「巾」と「幅」、「船着場」と「舟着場」、「お伽噺」と「御伽噺」、「邸」と「屋敷」、「手提(てさ)げ」と「手提(てさげ)」、「まん更(ざら)」と「満更(まんざ)ら」、「現れ」と「現われ」、「打開け」と「打あけ」、「心持」と「心持ち」、「暫く」と「暫らく」、「浅間しい」と「あさましい」、「不気味」と「無気味」、「昂奮」と「興奮」、「枕元」と「枕下」、「成程」と「なる程」と「成る程」、「叫声」と「叫び声」、「用心」と「要心」、「雑作」と「造作」、「這入る」と「入る」、「手掛り」と「手懸り」、「俄(にわ)か」と「俄(にわか)」、「ぶっつかって」と「ぶつかって」、「明かず」と「開かず」、「行方」と「行衛」、「檻禁」と「監禁」、「引汐」と「引潮」、「懐かしい」と「懐しい」、「助る」と「助かる」、「書(かき)つけ」と「書きつけ」、「傷(きずつ)け」と「傷つけ」、「以(もっ)て」と「以(も)って」、「僅(わずか)」と「僅(わず)か」、「愚(おろか)」と「愚か」、「独(ひとり)」と「独(ひと)り」、「取交(とりかわ)し」と「取交(とりか)わし」、「赤坊(あかんぼう)」と「赤ん坊」、「思立(おもいた)った」と「思い立った」、「極め」と「極(き)わめ」、「風呂敷包(ふろしきづつみ)」と「風呂敷包み」、「探出して」と「探し出して」、「我子」と「我が子」、「引ぱられ」と「引っぱられ」、「見逃す」と「見逃がす」、「美しく」と「美くしく」、「殆ど」と「殆んど」、「確め」と「確かめ」、「転り」と「転がり」、「怖く」と「怖わく」、「必ずしも」と「必らずしも」、「見交し」と「見交わし」、「忍込み」と「忍び込み」、「逃去った」と「逃げ去った」、「聞返し」と「聞き返し」、「掘返し」と「掘り返し」、「一突」と「一突き」、「突き刺され」と「突刺され」、「撰(えら)んだ」と「選んだ」、「臥(ね)た」と「寝た」、「双児(ふたご)」と「双生児(ふたご)」、「云い」と「言い」、「そっと」と「ソッと」、「可成」と「可也」、「群衆」と「群集」、「転覆」と「顛覆」、「調べ」と「検べ」、「捨て子」と「捨て児」、「八幡の藪不知」と「八幡の藪知らず」、「何故」と「なぜ」と「何ぜ」、「可哀相」と「可哀想」と「可愛想」、「乃木大将」と「乃木将軍」、「凹凸」と「凸凹」、「彼(か)の」と「彼(あ)の」、「背」と「脊」、「移殖」と「移植」、「系図書」と「系図書き」、「思い出し」と「思出し」、「御飯」と「ご飯」と「ごはん」、「不審に堪え」と「不審に耐え」、「見るに堪え」と「見るに耐え」の混在は、底本通りです。
※「何人」に対するルビの「なんぴと」と「なんびと」、「身体」に対するルビの「からだ」と「しんたい」、「彼奴」に対するルビの「きゃつ」と「あいつ」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:岡村和彦
校正:きりんの手紙
2020年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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