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お勢登場

著者:江戸川乱歩

おせいとうじょう - えどがわ らんぽ

文字数:11,698 底本発行年:1926
著者リスト:
著者江戸川 乱歩
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肺病やみの格太郎かくたろうは、今日も又細君さいくんにおいてけぼりを食って、ぼんやりと留守を守っていなければならなかった。 最初の程は、如何いかなお人しの彼も、激憤を感じ、それをたねに離別を目論もくろんだことさえあったのだけれど、やまいという弱味が段々彼をあきらめっぽくしてしまった。 先の短い自分の事、可愛い子供のことなど考えると、乱暴な真似まねはできなかった。 その点では、第三者であるけ、弟の格二郎かくじろうなどの方がテキパキしたかんがえを持っていた。 彼は兄の弱気を歯痒はがゆがって、時々意見めいた口をくこともあった。

「なぜ兄さんは左様そうなんだろう。 僕だったらとっくに離縁にしてるんだがな。 あんな人にあわれみをかける所があるんだろうか」

だが、格太郎にとっては、単に憐みという様なことばかりではなかった。 成程なるほど、今おせいを離別すれば、もんなしの書生っぽに相違ない彼女の相手と共に、たちまち其日そのひにも困る身の上になることは知れていたけれど、その憐みもさることながら、彼にはもっとほかの理由があったのだ。 子供の行末も無論案じられたし、それに、恥しくて弟などには打開うちあけられもしないけれど、彼には、そんなにされても、まだおせいをあきらめかねる所があった。 それゆえ、彼女が彼から離れ切って了うのを恐れて、彼女の不倫を責めることさえ遠慮している程なのであった。

おせいの方では、この格太郎の心持を、知り過ぎる程知っていた。 大げさに云えば、そこには暗黙の妥協に似たものが成り立っていた。 彼女は隠し男との遊戯の暇には、その余力をもって格太郎を愛撫することを忘れないのだった。 格太郎にして見れば、この彼女のわずかばかりのおなさけに、不甲斐ふがいなくも満足している外はない心持だった。

「でも、子供のことを考えるとね。 そう一概いちがいなことも出来ないよ。 この先一年もつか二年もつか知れないが、おれの寿命はきまっているのだし、そこへ持って来て母親までなくしては、あんまり子供が可哀相かわいそうだからね。 まあもうちっと我慢して見るつもりだ。 なあに、その内にはおせいだって、きっと考え直す時が来るだろうよ」

格太郎はそう答えて、一層弟を歯痒がらせるのを常とした。

だが、格太郎の仏心に引かえて、おせいは考え直すどころか、一日一日と、不倫の恋におぼれて行った。 それには、窮迫して、長病ながわずらいで寝た切りの、彼女の父親がだしに使われた。 彼女は父親を見舞いに行くのだと称しては、三日にあげずうちそとにした。 果して彼女が里へ帰っているかどうかをしらべるのは、無論わけのないことだったけれど、格太郎はそれすらしなかった。 妙な心持である。 彼は自分自身に対してさえ、おせいをかばう様な態度を取った。

今日もおせいは、朝から念入りの身じまいをして、いそいそと出掛けて行った。

「里へ帰るのに、お化粧はいらないじゃないか」

そんないやみが、口まで出かかるのを、格太郎はじっとこらえていた。 此頃このごろでは、そうしていことも云わないでいる、自分自身のいじらしさに、一種の快感をさえ覚える様になっていた。

細君が出て行って了うと、彼は所在なさに趣味を持ち出した盆栽ぼんさいいじりを始めるのだった。 跣足はだしで庭へ下りて、土にまみれていると、それでもいくらか心持が楽になった。 又一つには、そうして趣味に夢中になっているさまを装うことが、他人に対しても自分に対しても、必要なのであった。

おひる時分になると、女中が御飯を知らせに来た。

「あのおひるの用意が出来ましたのですが、もうちっとのちになさいますか」

女中さえ、遠慮勝ちにいたいたしそうな目で自分を見るのが、格太郎はつらかった。

「ああ、もうそんな時分かい。

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お勢登場 - 情報

お勢登場

おせいとうじょう

文字数 11,698文字

著者リスト:

底本 江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣

親本 創作探偵小説集第四巻 湖畔亭事件

青空情報


底本:「江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣」光文社文庫、光文社
   2005(平成17)年11月20日初版1刷発行
底本の親本:「創作探偵小説集第四巻 湖畔亭事件」春陽堂
   1926(大正15)年9月
初出:「大衆文藝」
   1926(大正15)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。
入力:金城学院大学 電子書籍制作
校正:門田裕志
2017年8月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:お勢登場

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