• URLをコピーしました!

地下生活者の手記

原題:ЗАПИСКИ ИЗ ПОДПОЛЬЯ

著者:ドストエーフスキイ

ちかせいかつしゃのしゅき

文字数:138,141 底本発行年:1970
0
0
0


第一 地下の世界

この手記の筆者も『手記』そのものもむろん、架空のものである。 が、それにもかかわらず、かかる手記の作者のごとき人物は、わが社会全般を形成している諸条件を考慮にとり入れてみると、この社会に存し得るのみならず、むしろ存在するのが当然なくらいである。 わたしはきわめて近き過去の時代に属する性格の一つを、普通よりも明瞭に、公衆の面前へ引きだしてみたかったのである。 それはいまだに余喘よぜんを保っている世代の一代表者なのである。 『地下の世界』と題するこの断章において、この人物は自分自身とその見解とを自己紹介し、あわせてかかる人物がわれわれの周囲に現われた理由、いな、現われなければならなかった理由を、闡明せんと欲しているかのごとくである。 次の断章においては、この人物が自己の生活中のある事件を叙述した本当の『手記』が始まるのである。

フョードル・ドストエーフスキイ

わたしは病的な人間だ……わたしは意地悪な人間だ。 わたしは人好きのしない人間だ。 これはどうも肝臓が悪いせいらしい。 もっとも、わたしは自分の病気のことなど、これっからさきもわかっていないし、それに自分の体のどこが悪いのか、それさえ確かなことはわからないのだ。 わたしは医術や医者を尊敬してはいるけれど、医療というものを受けていない。 またこれまでもかつて受けたことがない。 その上おまけに、わたしは極端に迷信家なのである。 まあ、いわば、医術など尊敬する程度のかつぎ屋なのである(わたしは迷信家にならないですむくらいには、十分教育を受けているのだけれど、それでもかつぎ屋なのである)。 なに、意地でも、医者の治療なんか受けたくない。 これなぞは、確かに諸君の理解を絶したことに相違ない。 ところが、わたしにはそれがわかっているのだ。 この場合、わたしがこんな意地をはって、いったいだれに面当てしようというのか、その辺はわたしもむろんうまく説明ができない。 わたしが医者の治療を受けないからといって、それでやつらを「困らせる」わけにはゆかないのは、自分でもよく承知している。 そんなことをして損をするのは自分一人だけで、ほかのだれでもないということは、百も承知なのである。 が、それにしても、わたしが治療を受けないのは、やはり意地っ張りのためなのだ。 肝臓が悪いのなら、もっともっと、うんと悪くなるがいい!

わたしはもう前からこんな生活をしている、――かれこれ二十年にもなろう。 いまわたしは四十だ。 以前は勤めていたが、いまは浪々の身の上だ、わたしは意地の悪い役人だった。 人に乱暴に当たって、それをもって快としていた。 なにしろ、わたしは賄賂を取らなかったのだから、せめてそれくらいの報酬は受けてしかるべきだったのである(これは悪い洒落だが、わたしはこれを消さないことにする。 これを書く時には、なかなか辛辣にゆきそうな気がしたものだが、今になってみると、ただ醜いから威張いばりがしたかったにすぎない、――が、意地にでも消さないでおく!)。 わたしの陣取っていたテーブルの傍へ、人民どもがいろんな問い合わせなどに寄ってくると、わたしはがみがみと、噛みつかないばかりにどなりつけて、うまくだれかを取っちめた時なぞは、抑え切れないほどの満足を感じたものだ。 しかも、それは大ていうまくいった。 彼らはおおむね臆病な連中ばかりだった。 いわずと知れた請願人気質というやつである。 が、ダンディ連の中には一人我慢のならない将校がいた。 こいつはいっかな降参しようとしないで、虫唾むしずが走るほど軍刀をがちゃがちゃ鳴らす癖があった。 わたしはこの軍刀のことで、やつと一年半ばかり戦争をつづけたが、とうとう勝利はこっちのものになった。 やっこさん、がちゃがちゃをやめてしまった。 ただし、これはまだわたしの若かった頃の話である。

第一 地下の世界

━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

地下生活者の手記 - 情報

地下生活者の手記

ちかせいかつしゃのしゅき

文字数 138,141文字

底本 ドストエーフスキイ全集 5

青空情報


底本:「ドストエーフスキイ全集 5」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月20日初版発行
   1979(昭和54)年4月20日13版発行
※「トルドリューボフ」と「トリドリューボフ」の混在は、底本通りです。
入力:阿部哲也
校正:荒木恵一
2018年10月24日作成
2021年5月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:地下生活者の手記

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!