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秘密

著者:谷崎潤一郎

ひみつ - たにざき じゅんいちろう

文字数:14,501 底本発行年:1969
著者リスト:
著者:谷崎 潤一郎
底本: 刺青・秘密
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序章-章なし

その頃(ころ)私は或(あ)る気紛(きまぐ)れな考(かんがえ)から、今迄(いままで)自分の身のまわりを裹(つつ)んで居た賑(にぎ)やかな雰囲気(ふんいき)を遠ざかって、いろいろの関係で交際を続けて居た男や女の圏内から、ひそかに逃れ出ようと思い、方々と適当な隠れ家を捜し求めた揚句、浅草の松葉町辺に真言宗(しんごんしゅう)の寺のあるのを見附けて、ようよう其処(そこ)の庫裡(くり)の一と間を借り受けることになった。

新堀の溝(みぞ)へついて、菊屋橋から門跡(もんぜき)の裏手を真っ直(す)ぐに行ったところ、十二階の下の方の、うるさく入り組んだ Obscure な町の中にその寺はあった。 ごみ溜(た)めの箱を覆(くつがえ)した如(ごと)く、あの辺一帯にひろがって居る貧民窟(ひんみんくつ)の片側に、黄橙色(だいだいいろ)の土塀(どべい)の壁が長く続いて、如何(いか)にも落ち着いた、重々しい寂しい感じを与える構えであった。

私は最初から、渋谷だの大久保だのと云う郊外へ隠遁(いんとん)するよりも、却(かえ)って市内の何処(どこ)かに人の心附かない、不思議なさびれた所があるであろうと思っていた。 丁度瀬の早い渓川(たにがわ)のところどころに、澱(よど)んだ淵(ふち)が出来るように、下町の雑沓(ざっとう)する巷(ちまた)と巷の間(あわい)に挟(はさ)まりながら、極めて特殊の場合か、特殊の人でもなければめったに通行しないような閑静な一郭(いっかく)が、なければなるまいと思っていた。

同時に又こんな事も考えて見た。 ―――

己(おれ)は随分旅行好きで、京都、仙台、北海道から九州までも歩いて来た。 けれども未(いま)だこの東京の町の中に、人形町で生れて二十年来永住している東京の町の中に、一度も足を蹈(ふ)み入れた事のないと云う通りが、屹度(きっと)あるに違いない。 いや、思ったより沢山あるに違いない。

そうして大都会の下町に、蜂(はち)の巣の如く交錯している大小無数の街路のうち、私が通った事のある所と、ない所では、孰方(どっち)が多いかちょいと判(わか)らなくなって来た。

何でも十一二歳の頃であったろう。 父と一緒に深川の八幡様(はちまんさま)へ行った時、

「これから渡しを渡って、冬木(ふゆぎ)の米市(こめいち)で名代のそばを御馳走(ごちそう)してやるかな。」

こう云って、父は私を境内(けいだい)の社殿の後(うしろ)の方へ連れて行った事がある。 其処には小網町や小舟町辺の掘割と全く趣の違った、幅の狭い、岸の低い、水の一杯にふくれ上っている川が、細かく建て込んでいる両岸の家々の、軒と軒とを押し分けるように、どんよりと物憂(ものう)く流れて居た。 小さな渡し船は、川幅よりも長そうな荷足りや伝馬(てんま)が、幾艘(いくそう)も縦に列(なら)んでいる間を縫いながら、二た竿(さお)三竿ばかりちょろちょろと水底(みなそこ)を衝(つ)いて往復して居た。

私はその時まで、たびたび八幡様へお参りをしたが、未だ嘗(かつ)て境内の裏手がどんなになっているか考えて見たことはなかった。 いつも正面の鳥居の方から社殿を拝むだけで、恐らくパノラマの絵のように、表ばかりで裏のない、行き止まりの景色のように自然と考えていたのであろう。 現在眼(め)の前にこんな川や渡し場が見えて、その先に広い地面が果てしもなく続いている謎(なぞ)のような光景を見ると、何となく京都や大阪よりももっと東京をかけ離れた、夢の中で屡々(しばしば)出逢(あ)うことのある世界の如く思われた。

それから私は、浅草の観音堂の真うしろにはどんな町があったか想像して見たが、仲店(なかみせ)の通りから宏大(こうだい)な朱塗りのお堂の甍(いらか)を望んだ時の有様ばかりが明瞭(めいりょう)に描かれ、その外の点はとんと頭に浮かばなかった。 だんだん大人になって、世間が広くなるに随(したが)い、知人の家を訪ねたり、花見遊山(ゆさん)に出かけたり、東京市中は隈(くま)なく歩いたようであるが、いまだに子供の時分経験したような不思議な別世界へ、ハタリと行き逢うことがたびたびあった。

そう云う別世界こそ、身を匿(かく)すには究竟(くっきょう)であろうと思って、此処彼処(ここかしこ)といろいろに捜し求めて見れば見る程、今迄通ったことのない区域が到(いた)る処(ところ)に発見された。 浅草橋と和泉(いずみ)橋は幾度も渡って置きながら、その間にある左衛門橋を渡ったことがない。 二長町(にちょうまち)の市村座へ行くのには、いつも電車通りからそばやの角を右へ曲ったが、あの芝居の前を真っ直ぐに柳盛座の方へ出る二三町ばかりの地面は、一度も蹈んだ覚えはなかった。 昔の永代(えいたい)橋の右岸の袂(たもと)から、左の方の河岸(かし)はどんな工合になって居たか、どうも好(よ)く判らなかった。 その外八丁堀、越前堀、三味線堀(しゃみせんぼり)、山谷(さんや)堀の界隈(かいわい)には、まだまだ知らない所が沢山あるらしかった。

松葉町のお寺の近傍は、そのうちでも一番奇妙な町であった。 六区と吉原を鼻先に控えてちょいと横丁を一つ曲った所に、淋(さび)しい、廃(すた)れたような区域を作っているのが非常に私の気に入って了(しま)った。 今迄自分の無二の親友であった「派手な贅沢(ぜいたく)なそうして平凡な東京」と云う奴(やつ)を置いてき堀にして、静かにその騒擾(そうじょう)を傍観しながら、こっそり身を隠して居られるのが、愉快でならなかった。

隠遁をした目的は、別段勉強をする為めではない。 その頃私の神経は、刃の擦(す)り切れたやすりのように、鋭敏な角々がすっかり鈍って、余程色彩の濃い、あくどい物に出逢わなければ、何の感興も湧(わ)かなかった。 微細な感受性の働きを要求する一流の芸術だとか、一流の料理だとかを翫味(がんみ)するのが、不可能になっていた。 下町の粋(いき)と云われる茶屋の板前に感心して見たり、仁左衛門(にざえもん)や鴈治郎(がんじろう)の技巧を賞美したり、凡(す)べて在り来たりの都会の歓楽を受け入れるには、あまり心が荒(すさ)んでいた。 惰力の為めに面白くもない懶惰(らんだ)な生活を、毎日々々繰り返して居るのが、堪えられなくなって、全然旧套(きゅうとう)を擺脱(はいだつ)した、物好きな、アーティフィシャルな、Mode of life を見出(みいだ)して見たかったのである。

普通の刺戟(しげき)に馴(な)れて了った神経を顫(ふる)い戦(おのの)かすような、何か不思議な、奇怪な事はないであろうか。 現実をかけ離れた野蛮な荒唐な夢幻的な空気の中に、棲息(せいそく)することは出来ないであろうか。 こう思って私の魂は遠くバビロンやアッシリヤの古代の伝説の世界にさ迷ったり、コナンドイルや涙香(るいこう)の探偵小説を想像したり、光線の熾烈(しれつ)な熱帯地方の焦土と緑野を恋い慕ったり、腕白な少年時代のエクセントリックな悪戯(あくぎ)に憧(あこが)れたりした。

賑かな世間から不意に韜晦(とうかい)して、行動を唯(ただ)徒(いたず)らに秘密にして見るだけでも、すでに一種のミステリアスな、ロマンチックな色彩を自分の生活に賦与(ふよ)することが出来ると思った。

序章-章なし
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秘密 - 情報

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ひみつ

文字数 14,501文字

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底本 刺青・秘密

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底本:「刺青・秘密」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月5日発行
   2011(平成23)年11月20日84刷改版
   2014(平成26)年6月5日87刷
初出:「中央公論」
   1911(明治44)年11月
※「群集」と「群衆」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:Iハルナ
校正:まつもこ
2016年9月9日作成
2021年10月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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