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吉野葛

著者:谷崎潤一郎

よしのくず - たにざき じゅんいちろう

文字数:36,764 底本発行年:1982
著者リスト:
著者谷崎 潤一郎
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その一 自天王

私が大和やまとの吉野のおくに遊んだのは、すでに二十年ほどまえ、明治の末か大正の初めころのことであるが、今とはちがって交通の不便なあの時代に、あんな山奥、―――近頃の言葉でえば「大和アルプス」の地方なぞへ、何しに出かけて行く気になったか。 ―――この話はまずその因縁いんねんからく必要がある。

読者のうちには多分ご承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川とつかわ、北山、川上のしょうあたりでは、今も土民によって「南朝様」あるいは「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔こうえいに関する伝説がある。 この自天王、―――後亀山帝ごかめやまてい玄孫げんそんに当らせられる北山宮きたやまのみやと云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。 ごくあらましをまんで云うと、普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元中げんちゅう九年、北朝の明徳めいとく三年、将軍義満よしみつの代に両統合体の和議が成立し、いわゆる吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐ごだいご天皇の延元えんげん元年以来五十余年で廃絶はいぜつしたとなっているけれども、そののち嘉吉かきつ三年九月二十三日の夜半やはんくすのき二郎正秀と云う者が大覚寺統だいかくじとうの親王万寿寺宮まんじゅじのみやほうじて、急に土御門つちみかど内裏だいりおそい、三種の神器じんぎぬすみ出して叡山えいざんに立てこもった事実がある。 この時、討手うって追撃ついげきを受けて宮は自害し給い、神器のうち宝剣ほうけんと鏡とは取り返されたが、神璽しんじのみは南朝方の手に残ったので、楠氏越智おち氏の一族さらに宮の御子みこ二方ふたかたほうじて義兵を挙げ、伊勢いせから紀井きい、紀井から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へきちのがれ、一の宮を自天王とあがめ、二の宮を征夷せいい大将軍たいしょうぐんあおいで、年号を天靖てんせいと改元し、容易に敵のうかがい知り得ない峡谷きょうこくの間に六十有余年も神璽をようしていたと云う。 それが赤松家の遺臣にあざむかれて、お二方の宮はたれ給い、ついに全く大覚寺統のおんすえの絶えさせられたのが長禄ちょうろく元年十二月であるから、もしそれまでを通算すると、延元元年から元中九年までが五十七年、それから長禄元年までが六十五年、実に百二十二年ものあいだ、ともかくも南朝の流れをみ給うお方が吉野におわして、京方きょうがた対抗たいこうされたのである。

遠い先祖から南朝方に無二むにのお味方を申し、南朝びいきの伝統を受けいで来た吉野の住民が、南朝と云えばこの自天王までを数え、「五十有余年ではありません、百年以上もつづいたのです」と、今でも固く主張するのに無理はないが、私もかつて少年時代に太平記を愛読した機縁から南朝の秘史に興味を感じ、この自天王の御事蹟じせきを中心に歴史小説を組み立ててみたい、―――と、そう云う計画を早くからいだいていた。 川上の荘の口碑こうひを集めたある書物によると、南朝の遺臣等は一時北朝方の襲撃しゅうげきおそれて、今の大台ヶ原山のふもとしおから、伊勢の国境大杉谷の方へ這入はいった人跡稀じんせきまれな行き留まりの山奥、さん公谷こだにと云う渓合たにあいに移り、そこに王の御殿ごてんを建て、神璽はとある岩窟がんくつの中にかくしていたと云う。 また、上月記こうつきき、赤松記等の記す所では、あらかじめいつわって南帝にくだっていた間嶋まじま彦太郎以下三十人の赤松家の残党は、長禄元年十二月二日、大雪に乗じて不意に事を起し、一手は大河内の自天王の御所ごしょを襲い、一手はこうたにの将軍の宮の御所に押し寄せた。 王はおんみずか太刀たちふるって防がれたけれども、ついにぞくのためにたおれ給い、賊は王の御首みしるしと神璽とをうばってげる途中とちゅう、雪にはばまれて伯母おばみねとうげに行き暮れ、御首を雪の中にめて山中にひと夜を明かした。 しかるに翌朝吉野十八ごう荘司しょうじ等が追撃して来て奮戦するうち、埋められた王の御首が雪中より血をき上げたために、たちまちそれを見附みつけ出して奪い返したと云う。 以上の事柄ことがらは書物によって多少の相違はあるのだが、南山巡狩録なんざんじゅんしゅろく、南方紀伝、桜雲記おううんき、十津川の記等にもみなっているし、ことに上月記や赤松記は当時の実戦者が老後に自ら書きのこしたものか、あるいはその子孫の手に成る記録であって、疑う余地はないのである。 一書によると、王のおとしは十八さいであったと云われる。 また、嘉吉かきつの乱にいったん滅亡めつぼうした赤松の家が再興されたのは、その時南朝の二王子をしいして、神璽を京へ取りもどした功績に報いたのであった。

いったい吉野の山奥から熊野くまのへかけた地方には、交通の不便なために古い伝説や由緒ゆいしょある家筋の長く存続しているものがめずらしくない。 たとえば後醍醐天皇が一時行在所あんざいしょにおてになった穴生あのうほり氏のやかたなど、昔のままの建物の一部が現存するばかりでなく、子孫が今にその家に住んでいると云う。 それから太平記の大塔宮だいとうのみや熊野くまの落ちの条下に出て来る竹原八郎の一族、―――宮はこの家にしばらくご滞在になり、同家の娘との間に王子みこをさえもうけていらっしゃるのだが、その竹原氏の子孫も栄えているのである。 そのほか更に古いところでは大台ヶ原の山中にある五鬼継ごきつぐの部落、―――土地の人はあれは鬼の子孫だと云って、決してその部落とは婚姻こんいんを結ばず、彼等かれらの方でも自分の部落以外とは結ぶことを欲しない。 そして自分たちはえん行者ぎょうじゃ前鬼ぜんき後裔こうえいだと称している。 すべてがそんな土地柄であるから、南朝の宮方にお仕え申した郷士の血統、「筋目の者」と呼ばれる旧家は数多くあって、現に柏木かしわぎの附近では毎年二月五日に「南朝様」をお祭り申し、将軍の宮の御所あとである神の谷の金剛寺こんごうじにおいておごそかな朝拝の式を挙げる。 その当日は数十けんの「筋目の者」たちは十六のきくのご紋章もんしょうの附いたかみしもを着ることを許され、知事代理や郡長等の上席にくのである。

私の知り得たこう云ういろいろの資料は、かねてから考えていた歴史小説の計画に熱度を加えずにはいなかった。 南朝、―――花の吉野、―――山奥の神秘境、―――十八歳になり給ううら若き自天王、―――楠二郎正秀、―――岩窟の奥に隠されたる神璽、―――雪中より血を噴き上げる王の御首、―――と、こう並べてみただけでも、これほど絶好な題材はない。 何しろロケーションが素敵である。 舞台には渓流けいりゅうあり、断崖だんがいあり、宮殿きゅうでんあり、茅屋ぼうおくあり、春のさくら、秋の紅葉もみじ、それらを取り取りに生かして使える。 しかもり所のない空想ではなく、正史はもちろん、記録や古文書が申し分なく備わっているのであるから、作者はただ与えられた史実を都合つごうよく配列するだけでも、面白い読み物を作り得るであろう。 が、もしその上に少しばかり潤色じゅんしょくほどこし、適当に口碑や伝説を取りぜ、あの地方に特有な点景、鬼の子孫、大峰おおみね修験者しゅげんじゃ、熊野参りの巡礼じゅんれいなどを使い、王に配するに美しい女主人公、―――大塔宮のご子孫の女王子おんなみこなどにしてもいいが、―――を創造したら、一層面白くなるであろう。 私はこれだけの材料が、なにゆえ今日まで稗史はいし小説家の注意をかなかったかを不思議に思った。 もっとも馬琴ばきんの作に「侠客きょうかく伝」という未完物があるそうで、読んだことはないが、それは楠氏の一女姑摩姫こまひめと云う架空かくうの女性を中心にしたものだと云うから、自天王の事蹟じせきとは関係がないらしい。 ほかに、吉野王をあつかった作品が一つか二つ徳川時代にあるそうだけれども、それとてどこまで史実に準拠じゅんきょしたものか明かでない。 要するに普通ふつう世間に行きわたっている範囲はんいでは、読み本にも、浄瑠璃じょうるりにも、芝居しばいにも、ついぞれたものはないのである。 そんなことから、私はだれも手を染めないうちに、自分が是非共ぜひともその材料をこなしてみたいと思っていた。

ところが、ここに、幸いなことには、思いがけない縁故えんこ辿たどって、いろいろあの山奥の方の地理や風俗を聞き込むことが出来た。 と云うのは、一高時代の友人の津村と云う青年、―――それが、当人は大阪の人間なのだが、その親戚しんせきが吉野の国栖くずに住んでいたので、私はたびたび津村をかいしてそこへ問い合わせる便宜べんぎがあった。

「くず」と云う地名は、吉野川の沿岸附近ふきんに二箇所かしょある。 下流の方のは「葛」の字をて、上流の方のは「国栖」の字を充てて、あの飛鳥浄見原天皇あすかのきよみはらのすめらみこと、―――天武てんむ天皇にゆかりのある謡曲ようきょくで有名なのは後者の方である。 しかし葛も国栖も吉野の名物である葛粉くずこの生産地と云う訳ではない。 葛は知らないが、国栖の方では、村人の多くが紙を作って生活している。

その一 自天王

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吉野葛 - 情報

吉野葛

よしのくず

文字数 36,764文字

著者リスト:

底本 ちくま日本文学014 谷崎潤一郎

親本 谷崎潤一郎全集 第十三巻

青空情報


底本:「ちくま日本文学014 谷崎潤一郎」筑摩書房
   2008(平成20)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十三巻」中央公論社
   1982(昭和57)年5月25日
初出:「中央公論」中央公論社
   1931(昭和6)年1月〜2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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