少年探偵団
著者:江戸川乱歩
しょうねんたんていだん - えどがわ らんぽ
文字数:101,474 底本発行年:1987
黒い魔物
そいつは全身、墨を塗ったような、おそろしくまっ黒なやつだということでした。
「黒い魔物」のうわさは、もう、東京中にひろがっていましたけれど、ふしぎにも、はっきり、そいつの正体を見きわめた人は、だれもありませんでした。
そいつは、暗やみの中へしか姿をあらわしませんので、何かしら、やみの中に、やみと同じ色のものが、もやもやと、うごめいていることはわかっても、それがどんな男であるか、あるいは女であるか、おとななのか子どもなのかさえ、はっきりとはわからないのだということです。
あるさびしいやしき町の夜番のおじさんが、長い
夜番のおじさんは、朝になって、みんなにそのことを話して聞かせましたが、そいつの姿が、あまりまっ黒なものですから、まるで白い歯ばかりが宙にういて笑っているようで、あんなきみの悪いことはなかったと、まだ青い顔をして、さも、おそろしそうに、ソッと、うしろをふりむきながら、話すのでした。
あるやみの晩に、
星もないやみ夜のことで、川水は墨のようにまっ黒でした。
ただ
まるで人が泳いでいるような波でした。 しかし、ただ、そういう形の波が見えるばかりで、人間の姿は、少しも目にとまらないのです。
船頭は、あまりのふしぎさに、ゾーッと背すじへ水をあびせられたような気がしたといいます。 でも、やせがまんをだして、大きな声で、その姿の見えない泳ぎ手に、どなりつけたということです。
「オーイ、そこに泳いでいるのは、だれだっ。」
すると、水をかくような白い波がちょっと止まって、ちょうど、その目に見えないやつの顔のあるへんに、白いものがあらわれたといいます。
よく見ると、その白いものは人間の前歯でした。 白い前歯だけが、黒い水の上にフワフワとただよって、ケラケラと、例のぶきみな声で笑いだしたというのです。
船頭は、あまりのおそろしさに、もうむがむちゅうで、あとをも見ずに船をこいで逃げだしたということです。
また、こんなおかしい話もありました。
ある月の美しい晩、
大学生は、だんだんきみが悪くなってきました。 影だけが死んでしまって動かないなんて、考えてみればおそろしいことです。 もしや自分は気でもちがったのではあるまいかと、もうじっとしていられなくなって、大学生は、いきなり歩きはじめたといいます。
すると、ああ、どうしたというのでしょう、影はやっぱり動かないのです。 大学生が、そこから三メートル、五メートルとはなれていっても、影だけは少しも動かず、もとの地面に、よこたわっているのです。
大学生は、あまりのぶきみさに、立ちすくんでしまいました。 そして、いくら見まいとしても、きみが悪ければ悪いほど、かえってその影を、じっと見つめないではいられませんでした。
ところが、そうして見つめているうちに、もっとおそろしいことがおこったのです。 その影の顔のまんなかが、とつぜん、パックリとわれたように白くなって、つまり影が口をひらいて、白い歯をみせたのですが、そして、例のケラケラという笑い声が聞こえてきたのです。
みなさん、自分の影が歯をむきだして笑ったところを想像してごらんなさい。 世の中にこんなきみの悪いことがあるでしょうか。
さすがの大学生も、アッとさけんで、あとをも見ずに逃げだしたということです。
それがやっぱり、例の黒い魔物だったのです。 あとで考えてみますと、大学生は月に向かっていたのですから、影はうしろにあるはずなのを、目の前に、黒々と人の姿がよこたわっていたものですから、つい、わが影と思いあやまってしまったのでした。
そういうふうにして、黒い魔物のうわさは、日一日と高くなっていきました。
やみの中からとびだしてきて、通行人の首をしめようとしたとか、夜、子どもがひとりで歩いていると、まるで黒いふろしきのように子どもをつつんで、地面をコロコロころがっていってしまうとか、種々さまざまのうわさが伝えられ、怪談は怪談をうんで、若い娘さんや、小さい子どもなどは、もうおびえあがってしまって、けっして夜は外出しないほどになってきました。
この魔物は、むかしの童話にある、かくれみのを持っているのと同じことでした。 かくれみのというのは、一度そのみのを身につけますと、人の姿がかき消すように見えなくなって、人中で何をしようと思うがまま、どんな悪いことをしても、とらえられる気づかいがないという、ちょうほうな魔法なのですが、黒い魔物は、それと同じように、やみのなかにとけこんで、人目をくらますことができるのでした。