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人間椅子

著者:江戸川乱歩

にんげんいす - えどがわ らんぽ

文字数:14,835 底本発行年:1931
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著者江戸川 乱歩
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序章-章なし

佳子よしこは、毎朝、夫の登庁とうちょうを見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館の方の、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。 そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせる為の、長い創作にとりかかっているのだった。

美しい閨秀けいしゅう作家としての彼女は、ごろでは、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせる程も、有名になっていた。 彼女の所へは、毎日の様に未知の崇拝者達からの手紙が、幾通となくやって来た。

今朝けさとても、彼女は、書斎の机の前に坐ると、仕事にとりかかる前に、ず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。

それはいずれも、きまり切った様に、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女の優しい心遣こころづかいから、どの様な手紙であろうとも、自分にあてられたものは、かくも、一通りは読んで見ることにしていた。

簡単なものから先にして、二通の封書と、一葉のはがきとを見て了うと、あとにはかさ高い原稿らしい一通が残った。 別段通知の手紙はもらっていないけれど、そうして、突然原稿を送って来る例は、これまでにしても、よくあることだった。 それは、多くの場合、長々しく退屈極る代物であったけれど、彼女は兎も角も、表題だけでも見て置こうと、封を切って、中の紙束を取出して見た。

それは、思った通り、原稿用紙をじたものであった。 が、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「奥様」という、呼びかけの言葉で始まっているのだった。 ハテナ、では、やっぱり手紙なのかしら、そう思って、何気なく二行三行と目を走らせて行く内に、彼女は、そこから、何となく異常な、妙に気味悪いものを予感した。 そして、持前もちまえの好奇心が、彼女をして、ぐんぐん、先を読ませて行くのであった。

奥様、

奥様の方では、少しも御存じのない男から、突然、此様このよう無躾ぶしつけな御手紙を、差上げます罪を、幾重いくえにもお許し下さいませ。

こんなことを申上げますと、奥様は、さぞかしびっくりなさる事で御座いましょうが、私は今、あなたの前に、私の犯して来ました、世にも不思議な罪悪を、告白しようとしているのでございます。

私は数ヶ月の間、全く人間界から姿を隠して、本当に、悪魔の様な生活を続けて参りました。 勿論もちろん、広い世界に誰一人、私の所業を知るものはありません。 し、何事もなければ、私は、このまま永久に、人間界に立帰ることはなかったかも知れないのでございます。

ところが、近頃になりまして、私の心にある不思議な変化が起りました。 そして、どうしても、この、私の因果な身の上を、懺悔ざんげしないではいられなくなりました。 ただ、かように申しましたばかりでは、色々御不審ごふしん思召おぼしめす点もございましょうが、どうか、兎も角も、この手紙を終りまで御読み下さいませ。 そうすれば、何故なぜ、私がそんな気持になったのか。 又何故、この告白を、殊更ことさら奥様に聞いて頂かねばならぬのか、それらのことが、ことごとく明白になるでございましょう。

さて、何から書き初めたらいいのか、余りに人間離れのした、奇怪千万な事実なので、こうした、人間世界で使われる、手紙という様な方法では、妙におもはゆくて、筆の鈍るのを覚えます。 でも、迷っていても仕方がございません。 兎も角も、事の起りから、順を追って、書いて行くことに致しましょう。

私は生れつき、世にも醜い容貌の持主でございます。 これをどうか、はっきりと、お覚えなすっていて下さいませ。 そうでないと、若し、あなたが、この無躾な願いをれて、私におい下さいました場合、たださえ醜い私の顔が、長い月日の不健康な生活のために、た目と見られぬ、ひどい姿になっているのを、何の予備知識もなしに、あなたに見られるのは、私としては、がたいことでございます。

私という男は、何と因果な生れつきなのでありましょう。 そんな醜い容貌を持ちながら、胸の中では、人知れず、世にもはげしい情熱を、もやしていたのでございます。 私は、おばけのような顔をした、その上く貧乏な、一職人に過ぎない私の現実を忘れて、身の程知らぬ、甘美な、贅沢ぜいたくな、種々様々の「夢」にあこがれていたのでございます。

私が若し、もっと豊な家に生れていましたなら、金銭の力によって、色々の遊戯にけり、醜貌しゅうぼうのやるせなさを、まぎらすことが出来たでもありましょう。 それとも又、私に、もっと芸術的な天分が、与えられていましたなら、例えば美しい詩歌によって、此世このよ味気あじきなさを、忘れることが出来たでもありましょう。 しかし、不幸な私は、いずれの恵みにも浴することが出来ず、哀れな、一家具職人の子として、親譲りの仕事によって、其日そのひ其日の暮しを、立てて行くほかはないのでございました。

私の専門は、様々の椅子いすを作ることでありました。 私の作った椅子は、どんな難しい註文主にも、きっと気に入るというので、商会でも、私には特別に目をかけて、仕事も、上物じょうものばかりを、廻してれて居りました。 そんな上物になりますと、もたれや肘掛ひじかけの彫りものに、色々むずかしい註文があったり、クッションの工合ぐあい、各部の寸法などに、微妙な好みがあったりして、それを作る者には、一寸ちょっと素人の想像出来ない様な苦心が要るのでございますが、でも、苦心をすればした丈け、出来上った時の愉快というものはありません。

序章-章なし
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人間椅子 - 情報

人間椅子

にんげんいす

文字数 14,835文字

著者リスト:

底本 江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者

親本 江戸川乱歩全集 第一巻

青空情報


底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社
   2004(平成16)年7月20日初版1刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第五巻」平凡社
   1931(昭和6)年7月
初出:「苦楽」プラトン社
   1925(大正14)年10月
※底本では、親本を「江戸川乱歩全集 第一巻」としていますが、該当書籍を確認の上、「江戸川乱歩全集 第五巻」にあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:湖山ルル
2016年1月1日作成
2016年11月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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