• URLをコピーしました!

少年

著者:谷崎潤一郎

しょうねん - たにざき じゅんいちろう

文字数:23,234 底本発行年:1981
著者リスト:
著者谷崎 潤一郎
0
0
0


序章-章なし

もう彼れ此れ二十年ばかりも前になろう。 漸く私が十ぐらいで、蠣殻かきがら町二丁目の家から水天宮裏の有馬学校へ通って居た時分―――人形町通りの空が霞んで、軒並の商家あきうどや紺暖簾こんのれんにぽか/\と日があたって、取り止めのない夢のような幼心にも何となく春が感じられる陽気な時候の頃であった。

或るうら/\と晴れた日の事、眠くなるような午後の授業が済んで墨だらけの手に算盤そろばんを抱えながら学校の門を出ようとすると、

「萩原の栄ちゃん」

と、私の名を呼んでうしろからばた/\と追いかけて来た者がある。 其の子は同級のはなわ信一と云って入学した当時から尋常四年の今日まで附添人の女中を片時も側から離した事のない評判の意気地なし、誰も彼も弱虫だの泣き虫だのと悪口をきいて遊び相手になる者のない坊ちゃんであった。

「何か用かい」

珍らしくも信一から声をかけられたのを不思議に思って私は其の子と附添の女中の顔をしげ/\と見守った。

「今日あたしのうちへ来て一緒にお遊びな。 家のお庭でお稲荷いなり様のお祭があるんだから」

緋の打ち紐で括ったような口から、優しい、おず/\した声で云って、信一は訴えるような眼差まなざしをした。 いつも一人ぼっちでいじけて居る子が、何でこんな意外な事を云うのやら、私は少しうろたえて、相手の顔を読むようにぼんやり立った儘であったが、日頃は弱虫だの何だのと悪口を云っていじめ散らしたようなものゝ、こういって眼の前に置いて見ると、有繋さすが良家の子息むすこだけに気高く美しい所があるように思われた。 糸織の筒袖に博多の献上の帯を締め、黄八丈の羽織を着てきゃらこの白足袋に雪駄せったを穿いた様子が、色の白い瓜実顔うりざねがお面立おもだちとよく似合って、今更品位に打たれたように、私はうっとりとして了った。

「ねえ、萩原の坊ちゃん、家の坊ちゃんと御一緒にお遊びなさいましな。 実は今日こんにち手前共にお祭がございましてね、あの成る可く大人しいお可愛らしいお友達を誘ってお連れ申すようにお母様のお云い附けがあったものですから、それで坊ちゃんがあなたをお誘いなさるのでございますよ。 ね、いらしって下さいましな。 それともお嫌でございますか」

附添の女中にこう云われて、私は心中得意になったが、

「そんなら一旦うちへ帰って、ことわってから遊びに行こう」

と、わざと殊勝しゅしょうらしい答をした。

「おやそうでございましたね。 ではあなたのおうちまでお供して参って、お母様に私からお願い致しましょうか、そうして手前共へ御一緒に参りましょう」

「うん、いゝよ。 お前ン所は知って居るから後から一人でも行けるよ」

「そうでございますか。 それではきっとお待ち申しますよ。 お帰りには私がお宅までお送り申しますから、お心配なさらないようにお家へ断っていらっしゃいまし」

「あゝ、それじゃ左様なら」

こう云って、私は子供の方を向いてなつかしそうに挨拶をしたが、信一は例の品のある顔をにこりともさせず、唯鷹揚おうようにうなずいたゞけであった。

今日からあの立派な子供と仲好しになるのかと思うと、何となく嬉しい気持がして、日頃遊び仲間の髢屋かもじやの幸吉や船頭の鉄公などに見付からぬように急いで家へ帰り、盲縞めくらじまの学校着をついの黄八丈の不断着に着更えるや否や、

「お母さん、遊びに行って来るよ」

と、雪駄をつッかけながら格子先に云い捨てゝ、其の儘塙の家へ駈け出して行った。

有馬学校の前から真っ直ぐに中之橋を越え、浜町の岡田の塀へついて中洲に近い河岸通りへ出た所は、何となくさびれたような閑静な一廓をなして居る。 今はなくなったが新大橋の袂から少し手前の右側に名代の団子屋と煎餅屋があって、其のすじ向うの角の、長い/\塀をめぐらしたいかめしい鉄格子の門が塙の家であった。 前を通るとこんもりした邸内の植込みの青葉の隙から破風型の日本館の瓦が銀鼠色に輝き、其のうしろに西洋館の褪紅緋色たいこうひいろ煉瓦れんががちら/\見えて、いかにも物持の住むらしい、奥床しい構えであった。

成る程其の日は何か内にお祭でもあるらしく、陽気な馬鹿囃しの太鼓の音が塀の外に洩れ、開け放された横町の裏木戸からは此の界隈に住む貧乏人の子供達が多勢ぞろ/\庭内に這入って行く。 私は表門の番人の部屋へ行って信一を呼んで貰おうかとも思ったが、何となく恐ろしい気がしたので、其の子供達と同じように裏木戸の潜りを抜けて構えの中へ這入った。

何と云う大きな屋敷だろう。 こう思って私は瓢箪形をした池のみぎわの芝生にたゝずんでひろい/\庭の中を見廻した。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

少年 - 情報

少年

しょうねん

文字数 23,234文字

著者リスト:

底本 潤一郎ラビリンスⅠ――初期短編集 (2)

親本 谷崎潤一郎全集 第一巻

青空情報


底本:「潤一郎ラビリンス――初期短編集」中公文庫、中央公論社
   1998(平成10)年5月18日初版発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第一巻」中央公論社
   1981(昭和56)年5月25日
初出:「スバル」
   1911(明治44)年6月号
※底本は新字新仮名づかいです。なお旧字の混在は、底本通りです。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:少年

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!