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大谷刑部

著者:吉川英治

おおたにぎょうぶ - よしかわ えいじ

文字数:16,932 底本発行年:1990
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著者吉川 英治
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馬と兵と女

七月の上旬である。 唐黍とうきびのからからとうごく間に、積層雲の高い空がけきッた鉄板みたいにじいんと照りつけていた。

――真っ黄いろなほこりがつづく。

よどを発した騎馬、糧車、荷駄、砲隊、銃隊などの甲冑かっちゅうの列が、朝から晩まで、そして今日でもう七日の間も、東海道の乾きあがった道を、続々と、江州路から関ヶ原を通り、遠く奥州方面へ向って下ってゆくのであった。

「夏のいくさはたまらんぞ」

「――さりとて、冬も」

「雪に馬のたおれることはないが、暑さでは、馬さえられる」

「夜は藪蚊やぶか、昼はこの炎天」

「一雨来ぬかな」

「この空では――」

「いッそ、敵にぶつかって、いざ戦となれば、暑さもくそもないが」

「敵は、上杉。 ――まだ白河会津までは何百里」

「うだるなア」

「いっそ物の具など、捨ててしまいたいが、裸で戦もなるまいし……」

「ははは」

騎馬と騎馬の上で、笑い合う声までが、干乾ひからびて、ほこりせそうになる。

それでも、馬上の部将格の者には、行軍のあいだに、そんな余裕もあったが、歩卒の心臓は、口もきけなかった。

自棄やけに、竹筒の水を飲み、それがなくなると、泥田の水でも、小川でも、水を見ると、餓鬼のように口をつけ、そして荷駄の手綱を持ち、銃や槍をかつぎ、部将に叱りとばされると、また隊伍を作り、火みたいな息をついて、

(ああ、まだこの辺は、美濃だ。 ――白河、会津の上杉領までは)

と、道よりも気の遠くなる心地で――泥の汗を、ひじでこすっては、行軍した。

「こん畜生、また坐ってしまやがッた。 ――っッ! っッ! 横着野郎めッ――」

大荷駄のうちで、突然、発狂したような足軽の呶号どごうが起る。 日射病でまた二頭の馬が大きな腹を横にして斃れてしまったのである。 その腹を、手綱で撲りつけていたが、馬は、口に白い泡を噛んで、眼をにぶくしながら、なぐる人間を、恨めしげに見ているだけであった。

「捨ててゆけ、捨ててゆけッ」

部将の声に、病馬の背から、荷が解かれ、他の糧車や馬の背へ移されると、もう陣列は待っていなかった。

それでも――さすがにまだ呼吸いきのある病馬を、見捨てかねるように、四、五人の足軽は後に残って、水を浴びせたり、薬をませたり、手当していた。

黍畑きびばたけ、桑畑などから、それを見つけて、附近の部落の腕白者や、洟垂はなたれを背負った老婆としよりなどが、いなごのようにぞろぞろ出て来て、

「やあ、馬が死んでら、泡吹いて――」

いくさにならねえうちにの」

「弱え馬だな」

「こんなこんで、上杉征伐に行ったら、上杉にぶち負けるだろうで」

行軍からは落伍するし、馬は起たないし、汗だくになって、焦々じりじりしていた歩卒は、

「こいつら! 何云うか」

槍の柄で、唐黍とうきびの首を横に撲りつけた。

わっ――と逃げる子供の群れに突かれて、桑畑のくろよろめいて、痛そうに眼をうるませていた若い女が、ふと、足軽達の眼にとまった。

馬と兵と女

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大谷刑部 - 情報

大谷刑部

おおたにぎょうぶ

文字数 16,932文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 柳生月影抄 名作短編集(二)

青空情報


底本:「柳生月影抄 名作短編集(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年9月11日第1刷発行
   2007(平成19)年4月20日第12刷発行
初出:「現代二月号」
   1936(昭和11)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:大谷刑部

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