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随筆 宮本武蔵

著者:吉川英治

ずいひつ みやもとむさし - よしかわ えいじ

文字数:139,601 底本発行年:1990
著者リスト:
著者吉川 英治
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古人をるのは、山を観るようなものである。 観る者の心ひとつで、山のありかたは千差万別する。

無用にも有用にも。 遠くにも、身近にも。

山に対して、山を観るがごとく、時をへだてて古人を観る。 興趣はつきない。

過去の空には、古人の群峰がある。 そのたくさんな山影の中で、宮本武蔵は、私のすきな古人のひとりである。 剣という秋霜しゅうそうの気が、その人の全部かのように荊々とげとげしく思われて来たが、彼の仮名文字かなもじをようく見つめているとわかる。 あんな優雅なにおい、やさしさ、細やかさ、虚淡きょたんな美を、剣を持つ指の先から書きながす人が、過去にも幾人とあったろうか。

子どもが好きだ。 漂泊ひょうはくの途で、不幸で質のいい子を見かけると彼は拾う。 銀の猫をやって立去った西行さんより人間的だ。 なぜなら、彼も不幸な子だったから。

自ら伸ばそうともしない生命の芽を、また運命を、日陰へばかり這わせて、不遇を時代のせいにばかりしたがる者は、彼の友ではあり得ない。 大風にもあらい波にも、時代がぶつけて来るものへは、大手をひろげてぶつかり、それに屈しないのが、彼の歩みだった。 道だった。

近代の物力以上、近代人の知能以上、系図や家門が重んじられた社会制度の頃に生きて、一郷士の子という以外、彼は何も持たなかった。 持てるようになってからも持たなかった。 死ぬまで、離さなかったものがただ一つあった。 剣である。 その道である。

剣をとおして、彼は人間の凡愚と菩提ぼだいを見、人間という煩悩ぼんのうのかたまりが、その生きるための闘争本能が、どう処理してゆけるものか、死ぬまで苦労してみた人だ。 乱麻殺伐らんまさつばつな時風に、人間を斬る具とのみされていた剣を、同時に、仏光ともなし、愛のつるぎともして、人生の修羅なるものを、人間苦の一つの好争性を、しみじみ哲学してみた人である。

剣を、一ツの「道」にまで、精神的なものへ、引上げたのも彼である。 応仁から戦国期へかけて、ただ殺伐にばかり歩いてきた、さむらいの道は、まちがいなくそこから踏み直したといっていい。

眸が琥珀色こはくいろだった。 六尺近くも背があった。 生涯六十何度かの試合に勝ちとおした。 一生妻もめとらなかった。 晩年は髪もくしけずらず湯にもはいらなかった。 ――こころのあかはそそぐとも身の垢はそそぐによしなし[#「こころのあかはそそぐとも身の垢はそそぐによしなし」はママ]、と猶、心をくだいていた。 ずいぶん怖い人にちがいなかった。 だが今日残っている彼の画は、老梅の花とも、秋霜の菊華とも、気品のたかさゆかしさ、たたえようもないではないか。

そういう武蔵。 いろいろな角度から、観る者の眼ひとつで、いろいろに観られる武蔵。

従って、名人論、非名人論、古くから毀誉褒貶きよほうへんのなかに彼の名はただよわされて来た。 私はまた小説に書いた。

小説は必ずしも史実を追っていない。

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随筆 宮本武蔵 - 情報

随筆 宮本武蔵

ずいひつ みやもとむさし

文字数 139,601文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 随筆 宮本武蔵/随筆 私本太平記

青空情報


底本:「随筆 宮本武蔵/随筆 私本太平記」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年10月11日第1刷発行
   2003(平成15)年3月5日第9刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※〔〕内の編集部註は省きました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:随筆 宮本武蔵

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