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私本太平記 01 あしかが帖

著者:吉川英治

しほんたいへいき - よしかわ えいじ

文字数:121,768 底本発行年:1990
著者リスト:
著者吉川 英治
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下天地蔵げてんじぞう

まだ除夜の鐘には、すこし間がある。

とまれ、ことしも大晦日おおつごもりまで無事に暮れた。 だが、あしたからの来る年は。

洛中の耳も、大極殿だいごくでんのたたずまいも、やがての鐘を、偉大な予言者の声にでもれるように、霜白々と、待ち冴えている。

洛内四十八ヵ所の篝屋かがりやの火も、つねより明々と辻を照らし、淡い夜靄よもやをこめたたつみの空には、羅生門のいらかが、夢のように浮いて見えた。 そこの楼上などには、いつも絶えない浮浪者の群れが、あすの元日を待つでもなく、えおののいていたかもしれないが、しかし、とにかく泰平の恩沢おんたくともいえることには、そこらの篝番の小屋にも、町なかの灯にも、総じて、酒の香がただよっていた。 都の夜靄は酒の匂いがするといってもいいほど、まずは穏やかな年越しだった。

「さ、戻りましょうず。 ……若殿、又太郎さま。 ……はて、これは困った。 いつのまにやら、邪気も無う、ようおやすみだわ」

一色右馬介いっしきうまのすけは苦笑した。 ゆり起しても、若い主人の寝顔は、居酒屋の床几しょうぎったまま、後ろの荒壁を背に、ぶらぶら動くだけなのである。

「これはちと、参らせすぎたな。 やはりお年はお年」

右馬介は侍者じしゃとして、急に自分のよいをさました。 ここは錦小路の、俗に“請酒屋うけざかや”とも“小酒屋”ともよぶ腰かけ店だ。 こんな所へ、ご案内したと知れただけでも、あとで上杉殿からどんなお叱りをうけるかと。

かつて、自分は六波羅の大番役も勤め、都は何度も見ていたが、又太郎ぎみには、初めてのご見物だ。 すべてが、もの珍しくてならないらしい。

ところで、こんどの上洛では、彼も驚目したことだが、なんと都には、酒屋がえたものだろう。 ――という感を、ここの亭主にただしてみたら、十年前には醸造元の“本酒屋”も百軒とはなかったものが、当今では洛中だけでも二百四、五十軒をこえ、その上、近江の百済寺くだらでらで造るのや、大和菩提寺の奈良酒だの、天野山金剛寺の名酒だの、遠くは、博多の練緯酒ねりぬきざけまでが輸入されてくる有様なので、請売りの小酒屋も、かくは軒を競っておりますので、ということだった。

なるほど、これは自分たちの国元、関東などでは見られない。

だが、このすさまじい酒屋繁昌は、人心の何を語っているものか。 ただ単に、これも泰平の余沢よたくといえる現象なのか。

主従しての、そんな話から浮いて、つい、

「何も土産ぞ。 奈良酒とやら百済酒とやら、ひとつ、飲みくらべてみようではないか」

と、なったものだ。

これは、又太郎から、言い出したこととしても、こんなにまで飲ませてしまったのは、重々自分も悪かった、と思うしかない。

「若殿、若殿。 もはや相客とて、たれ一人おりませぬ。 さ、立ちましょう。 除夜の鐘もそろそろ鳴る頃……」

又太郎は、やっと眼をさました。 めた顔は、いとどあどけないほど若々しくて、ただまぶしげにニヤリと笑う。 そして、直垂ひたたれの袖ぐちで、あごのよだれを横にこすった。

「ああ、よいここちだった。 右馬介、よほど長く眠ったのか、わしは」

下天地蔵げてんじぞう

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私本太平記 - 情報

私本太平記 01 あしかが帖

しほんたいへいき 01 あしかがじょう

文字数 121,768文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 私本太平記(一)

青空情報


底本:「私本太平記(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年2月11日第1刷発行
   2010(平成22)年4月1日第32刷発行
※副題は底本では、「あしかが帖(じょう)」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2012年11月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:私本太平記

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