下天地蔵
まだ除夜の鐘には、すこし間がある。
とまれ、ことしも大晦日まで無事に暮れた。
だが、あしたからの来る年は。
洛中の耳も、大極殿のたたずまいも、やがての鐘を、偉大な予言者の声にでも触れるように、霜白々と、待ち冴えている。
洛内四十八ヵ所の篝屋の火も、つねより明々と辻を照らし、淡い夜靄をこめた巽の空には、羅生門の甍が、夢のように浮いて見えた。
そこの楼上などには、いつも絶えない浮浪者の群れが、あすの元日を待つでもなく、飢えおののいていたかもしれないが、しかし、とにかく泰平の恩沢ともいえることには、そこらの篝番の小屋にも、町なかの灯にも、総じて、酒の香がただよっていた。
都の夜靄は酒の匂いがするといってもいいほど、まずは穏やかな年越しだった。
「さ、戻りましょうず。
……若殿、又太郎さま。
……はて、これは困った。
いつのまにやら、邪気も無う、ようお寝みだわ」
一色右馬介は苦笑した。
ゆり起しても、若い主人の寝顔は、居酒屋の床几に倚ったまま、後ろの荒壁を背に、ぶらぶら動くだけなのである。
「これはちと、参らせすぎたな。
やはりお年はお年」
右馬介は侍者として、急に自分の酔をさました。
ここは錦小路の、俗に“請酒屋”とも“小酒屋”ともよぶ腰かけ店だ。
こんな所へ、ご案内したと知れただけでも、あとで上杉殿からどんなお叱りをうけるかと。
かつて、自分は六波羅の大番役も勤め、都は何度も見ていたが、又太郎ぎみには、初めてのご見物だ。
すべてが、もの珍しくてならないらしい。
ところで、こんどの上洛では、彼も驚目したことだが、なんと都には、酒屋が殖えたものだろう。
――という感を、ここの亭主にただしてみたら、十年前には醸造元の“本酒屋”も百軒とはなかったものが、当今では洛中だけでも二百四、五十軒をこえ、その上、近江の百済寺で造るのや、大和菩提寺の奈良酒だの、天野山金剛寺の名酒だの、遠くは、博多の練緯酒までが輸入されてくる有様なので、請売りの小酒屋も、かくは軒を競っておりますので、ということだった。
なるほど、これは自分たちの国元、関東などでは見られない。
だが、この凄まじい酒屋繁昌は、人心の何を語っているものか。
ただ単に、これも泰平の余沢といえる現象なのか。
主従しての、そんな話から浮いて、つい、
「何も土産ぞ。
奈良酒とやら百済酒とやら、ひとつ、飲みくらべてみようではないか」
と、なったものだ。
これは、又太郎から、言い出したこととしても、こんなにまで飲ませてしまったのは、重々自分も悪かった、と思うしかない。
「若殿、若殿。
もはや相客とて、たれ一人おりませぬ。
さ、立ちましょう。
除夜の鐘もそろそろ鳴る頃……」
又太郎は、やっと眼をさました。
醒めた顔は、いとどあどけないほど若々しくて、ただまぶしげにニヤリと笑う。
そして、直垂の袖ぐちで、顎のよだれを横にこすった。
「ああ、よいここちだった。
右馬介、よほど長く眠ったのか、わしは」