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三国志 05 臣道の巻

著者:吉川英治

さんごくし - よしかわ えいじ

文字数:154,945 底本発行年:1989
著者リスト:
著者吉川 英治
底本: 三国志(三)
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煩悩攻防戦ぼんのうこうぼうせん

呂布りょふは、やぐらに現れて、

「われを呼ぶは何者か」と、わざと云った。

泗水しすいの流れを隔てて、曹操の声は水にこだまして聞えてきた。

「君を呼ぶ者は君の好き敵である許都きょと丞相じょうしょう曹操だ。 ――しかし、君と我と、本来なんの仇があろう。 予はただご辺が袁術えんじゅつと婚姻を結ぶと聞いて、攻め下ってきたまでである。 なぜならば、袁術は皇帝を僭称せんしょうして、天下をみだす叛逆の賊である。 かくれもない天下の敵である」

「…………」

呂布は、沈黙していた。

河水をわたる風は白く、蕭々しょうしょうと鳴るは蘆荻ろてき翩々へんぺんとはためくは両陣の旌旗せいき ――その間一すじの矢も飛ばなかった。

「予は信じる。 君は正邪の見極めもつかないほど愚かな将軍ではないことを。 ――今もしほこを伏せて、この曹操に従うならば、予は予の命を賭しても、天子に奏して君の封土ほうどと名誉とを必ず確保しておみせしよう」

「…………」

「それに反し、この際、迷妄めいもうにとらわれて降らず、君の城郭もあえなく陥落する日となっては、もう何事も遅い、君の一族妻子も、一人として生くることは、不可能だろう。 のみならず、百世の後まで、悪名を泗水に流すにきまっている。 よくよく賢慮けんりょし給え」

呂布は動かされた。 それまで黙然と聞いていたが、やにわに手を振り上げ、

「丞相丞相。 しばらくの間、呂布に時刻の猶予ゆうよをかし給え。 城中の者とよく商議して、降使をつかわすことにするから」

傍にいた陳宮は、意外な呂布の返辞に愕然として跳び上がり、

「な、なにをばかなことを仰っしゃるかっ」

と、主君の口をふさぐように、突然、横あいから大音声で曹操へ云い返した。

「やよ曹賊そうぞく 汝は、若年の頃から口先で人をだます達人だが、この陳宮がおる以上、わが主君だけはあざむかれんぞ。 この寒風に面皮めんぴをさらして、無用の舌の根をうごかさずと、早々退散しろ」

言葉の終った刹那、陳宮の手に引きしぼられていた弓がぷん弦鳴つるなりを放ち、矢は曹操の※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)かぶと眉庇まびさしにあたってはね折れた。

曹操は、くわっとまなじりをあげて、

「陳宮ッ、忘るるな、誓って汝の首を、予の土足に踏んで、今の答えをなすぞ」

そして左右の二十騎に向って、即時、総攻撃にうつれと峻烈しゅんれつに命じた。

やぐらの上から呂布はあわてて、

「待ちたまえ、曹丞相そうじょうしょう 今の放言は、陳宮の一存で、此方の心ではない。 それがしは必ず商議の上、城を出て降るであろう」

煩悩攻防戦ぼんのうこうぼうせん

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三国志 - 情報

三国志 05 臣道の巻

さんごくし 05 しんどうのまき

文字数 154,945文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 三国志(三)

青空情報


底本:「三国志(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年4月11日第1刷発行
   2008(平成20)年9月16日第50刷発行
※副題には底本では、「臣道(しんどう)の巻(まき)」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年7月11日作成
2022年6月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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