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宮本武蔵 06 空の巻

著者:吉川英治

みやもとむさし - よしかわ えいじ

文字数:224,012 底本発行年:1989
著者リスト:
著者吉川 英治
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普賢ふげん

木曾路へはいると、随所にまだ雪が見られる。

峠のくぼみから、薙刀なぎなたなりに走っている白いひらめきは、駒ヶ岳の雪のヒダであり、仄紅ほのあかい木々の芽をかして彼方に見える白いまだらのものは、御岳おんたけの肌だった。

だがもう畑や往来には、浅い緑がこぼれている。 季節は今、なんでも育つさかりなのだ。 踏んづけても踏んづけても、若い草は伸びずにいない。

まして城太郎の胃ぶくろと来ては、いよいよ、育つ権利を主張する。 この頃殊に、髪の毛が伸びるように、背の寸法までが伸びそうに見えて、将来の大人ぶりも思いやられる風がある。

もの心つくと、世間の波へほうり出されて、拾われた手はまた、流転るてんの人であった。 勢い、旅から旅の苦労をめ、どうしてもおませになるべく環境が迎えてくるので仕方がないが、近頃、時々あらわす生意気さ加減には、お通もよく泣かされて、

(なんだってこんな子に、こうつかれてしまったのかしら)

と、ため息ついて、睨んでやることもある。

しかしき目のあろうわけはない。 城太郎は知り抜いているのだ。 そんなこわい顔したって、心のなかでは、おいらが可愛くてならないくせに――と。

そういう横着と、今の季節と、飽くことを知らない胃ぶくろが、行く先々、食べ物とさえ見れば、

「よう、よう、お通さんてば。 あれ買っておくれよ」

と、彼の足を、往来へ釘づけにしてしまう。

先ほど、通りこえた須原すはら宿しゅくには、木曾将軍の四天王、今井兼平かねひらとりであとがあるところから「兼平かねひらせんべい」を軒並み売っていたため、とうとうそこでは、お通が根負けして、

「これだけですよ」

念を押して、買って与えたが、半里はんみちと歩かないうちに、それもぼりぼり食べ終ってしまい、ややともすると、なにか物欲しそうな顔をする。

寝覚ねざめでは、宿場茶屋の端をかりて、早目な昼めしを喰べたので、事なく済んだが、やがて一峠越えて、上松あげまつのあたりへかかると、

「お通さん、お通さん。 干し柿が下がっているぜ。 干し柿喰べたくないかい?」

そろそろ謎をかけ始める。

牛の背に乗って、牛の顔のように、お通が聞えない振りをしているので、むなしく、干し柿は見過ごしてしまったが、程なく木曾第一の殷賑いんしんな地、信濃しなの福島の町中へさしかかると、折から陽も八刻やつ頃だし、腹もり頃なので、

「休もうよ、そこらで――」

と、また始め出した。

「ね、ね」

こう鼻でね出すと、駄々にねばりが出るばかりで、歩けばこそ、テコでも動く顔つきではない。

「よう、ようっ。 黄粉餅きなこもちたべようよう。 ……嫌かい?」

こうなっては一体、ねだっているのか、お通を脅迫しているのか、分らない。 彼女の乗っている牛の手綱は、城太郎の手に曳かれているため、彼の歩き出さぬうちは、どう焦々いらいら思っても、黄粉餅屋の軒先を、通り越えることができないからである。

「いい加減におしなさい」

遂に、お通も意地になってしまう。

普賢ふげん

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宮本武蔵 - 情報

宮本武蔵 06 空の巻

みやもとむさし 06 そらのまき

文字数 224,012文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 宮本武蔵(五)

青空情報


底本:「宮本武蔵(五)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年12月11日第1刷発行
   2002(平成14)年10月8日第36刷発行
   「宮本武蔵(六)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年1月11日第1刷発行
   2002(平成14)年12月5日第37刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:宮本武蔵

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