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宮本武蔵 02 地の巻

著者:吉川英治

みやもとむさし - よしかわ えいじ

文字数:90,339 底本発行年:1989
著者リスト:
著者吉川 英治
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――どうなるものか、この天地の大きな動きが。

もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。 なるようになッてしまえ。

武蔵たけぞうは、そう思った。

かばねと屍のあいだにあって、彼も一個の屍かのように横たわったまま、そう観念していたのである。

「――今、動いてみたッて、仕方がない」

けれど、実は、体力そのものが、もうどうにも動けなかったのである。 武蔵自身は、気づいていないらしいが、体のどこかに、二つ三つ、銃弾たまが入っているに違いなかった。

ゆうべ。 ――もっと詳しくいえば、慶長五年の九月十四日の夜半よなかから明け方にかけて、この関ヶ原地方へ、土砂ぶりに大雨を落した空は、今日のひるすぎになっても、まだ低い密雲をかなかった。 そして伊吹山いぶきやまの背や、美濃みのの連山を去来するその黒い迷雲から時々、サアーッと四里四方にもわたる白雨が激戦の跡を洗ってゆく。

その雨は、武蔵たけぞうの顔にも、そばの死骸にも、ばしゃばしゃと落ちた。 武蔵は、鯉のように口を開いて、鼻ばしらから垂れる雨を舌へ吸いこんだ。

――末期まつごの水だ。

しびれた頭のしんで、かすかに、そんな気もする。

戦いは、味方の敗けと決まった。 金吾中納言秀秋きんごちゅうなごんひであきが敵に内応して、東軍とともに、味方の石田三成をはじめ、浮田うきた、島津、小西などの陣へ、さかさにほこを向けて来た一転機からの総くずれであった。 たった半日で、天下の持主は定まったといえる。 同時に、何十万という同胞どうぼうの運命が、眼に見えず、刻々とこの戦場から、子々孫々までの宿命を作られてゆくのであろう。

「俺も、……」

と、武蔵は思った。 故郷くにに残してある一人の姉や、村の年老としよりなどのことをふとまぶたうかべたのである。 どうしてであろう、悲しくもなんともない。 死とは、こんなものだろうかと疑った。 だが、その時、そこから十歩ほど離れた所の味方の死骸の中から、一つの死骸と見えたものが、ふいに、首をあげて、

たけやアん!」

と、呼んだので、彼の眼は、仮死から覚めたように見まわした。

槍一本かついだきりで、同じ村を飛び出し、同じ主人の軍隊にいて、お互いが若い功名心に燃え合いながら、この戦場へ共に来て戦っていた友達の又八またはちなのである。

その又八も十七歳、武蔵たけぞうも十七歳であった。

「おうっ。 またやんか」

答えると、雨の中で、

「武やん生きてるか」

と、彼方むこうで訊く。

武蔵は精いッぱいな声でどなった。

「生きてるとも、死んでたまるか。 又やんも、死ぬなよ、犬死するなっ」

「くそ、死ぬものか」

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宮本武蔵 - 情報

宮本武蔵 02 地の巻

みやもとむさし 02 ちのまき

文字数 90,339文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 宮本武蔵(一)

青空情報


底本:「宮本武蔵(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年11月11日第1刷発行
   2010(平成22)年5月6日第41刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:宮本武蔵

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