• URLをコピーしました!

宮本武蔵 01 序、はしがき

著者:吉川英治

みやもとむさし - よしかわ えいじ

文字数:2,894 底本発行年:1989
著者リスト:
著者吉川 英治
0
0
0


初版が出たのさえ十数年前だった。 起稿きこうを思い立った日からでは、もう、二十年ちかい歳月がながれている。

この書が、装幀を新たに、版をかさねて出るとなると、いつも私は過去茫々ぼうぼうの想いにたえない。 じつに世のなかはその間にすら幾変いくかわりも変遷へんせんしてきた。

さる人が私にいった。 「あなたの宮本武蔵はもう古典ですよ、一つの古典として在るわけでしょう」と。 なるほど、そんなものかもしれないと私も苦笑した。 それならそれで望外ぼうがいなことだと思う。

だが、何しろ作家としては、二十年ちかくも年をけみしてみると、今日では自分ながら意にみたない所も多く、わけて心の未成熟みせいじゅくな自己のすがたが眼につくのであるが、しかしこれはこれなり私というものの全裸な一時代の仕事であったことにまちがいはない。 後にどうつくろうべきものでもなかろう。 ただ、時の流れと、時評の是々非々と、そして読者のもとめにまかせるのみである。

昭和二八・晩秋

著者

[#改ページ]

はしがき

――「旧序抄の」

宮本武蔵のあるいた生涯は、煩悩ぼんのうと闘争の生涯であったといえよう。 もちろん世代は遠く違うが、その二点では現代人もおなじ苦悩をまだ脱しきれてはいない。 武蔵のばあいは、しかし、もっとも闘争社会の赤裸な時代であった。 そして当然、かれも持つ本能のすがたのまま、なやみ、もがき、猛り泣いて、かかる人間宿命を、一けん具象ぐしょうし、その修羅道しゅらどうから救われるべき「道」をさがし求めた生命の記録が彼であったのだ。 ということには、たれも異論はないと思う。

人間個々が、未生みしょうからすでに宿してきた性慾、肉体の解決という課題が、文学の大事ならば、同列の人間宿命といいうる闘争本能の根体こんたい究明きゅうめいしてゆくことも、大きな課題といってよい。

主題の人間武蔵は、まちがいなく、その本能苦と闘ったものである。 この無限にさえ見える宿命苦をふくめた宇宙が彼の住みかであり、一本の針にもたらないその剣は、かれの心の形象にすぎない。 かれが求めた闘争即菩提とうそうそくぼだい――闘争即是道とうそうそくぜどうの道にすぎない。

影響を私はおそれる。 影響に私は臆病である。 私は、道学者どうがくしゃじゃないが、それに思いおよぶと、細心になってしまう。

かりそめの一小説も、ときには、読者の生涯を左右する。

自分の書くものが、文学であり得る、文学でなくなる、そんな問題よりずっと上に、読者への影響いかんがまず位置している。 それが自分の文学態度だといえるほどに。

もとより初めから興味中心でかいたものには、私とてそんなにまで決して潔癖でもないが、この書には特に、わずらいがちなのである。

多年、この作品を介して、著者へよせられた読者の垂愛すいあいにたいして、私はそうならずにいられないとみえる。

一例にすぎないが、京都の桜の画家といわれた故K・U氏は、生活苦のはて、一家心中をこころにきめた日、たまたま、その日の夕刊に、武蔵が朝熊山あさまやまをのぼる一章を読み、死をおもいとどまったのでしたと、後に朝日のT学芸部長を通じ、私を訪われて語られたことなどある。 水泳の古橋選手も、将棋の升田八段も、この書のどこかを自身の精進に生かし得たということを、人づてに聞かされもした。 こういうとき、私は、よろこびと張合いを感じもするが、より以上、苦痛にも似た自責をおぼえないではいられない。

さきに影響といったが、読者が、作家に与える影響というものもありうる。 あるいは、いつかしら、私は多分に、読者から影響されていた者かも知れない。

大衆のなかに机をおき、大衆の精神生活と共にあろうとする文学のぎょうは、孤高ここうの窓でらんを愛するようなわけにゆかないのがほんとだろう。

━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

宮本武蔵 - 情報

宮本武蔵 01 序、はしがき

みやもとむさし 01 じょ、はしがき

文字数 2,894文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 宮本武蔵(一)

青空情報


底本:「宮本武蔵(一)」吉川英治歴史時代文庫14、講談社
   1989(平成元)年11月11日第1刷発行
   2010(平成22)年5月6日第41刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:宮本武蔵

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!