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金色夜叉

著者:尾崎紅葉

こんじきやしゃ - おざき こうよう

文字数:250,652 底本発行年:1969
著者リスト:
著者尾崎 紅葉
底本: 金色夜叉
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前編

第一章

だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠さしこめて、真直ますぐに長く東より西によこたはれる大道だいどうは掃きたるやうに物の影をとどめず、いとさびしくも往来ゆききの絶えたるに、例ならずしげ車輪くるまきしりは、あるひせはしかりし、あるひは飲過ぎし年賀の帰来かへりなるべく、まばらに寄する獅子太鼓ししだいこ遠響とほひびきは、はや今日に尽きぬる三箇日さんがにちを惜むが如く、その哀切あはれさちひさはらわたたたれぬべし。

元日快晴、二日快晴、三日快晴としるされたる日記をけがして、この黄昏たそがれよりこがらし戦出そよぎいでぬ。 今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声のなだむる者無きより、いかりをも増したるやうに飾竹かざりだけ吹靡ふきなびけつつ、からびたる葉をはしたなげに鳴して、えては走行はしりゆき、狂ひては引返し、みに揉んでひとり散々に騒げり。 微曇ほのぐもりし空はこれが為にねむりさまされたる気色けしきにて、銀梨子地ぎんなしぢの如く無数の星をあらはして、鋭くえたる光は寒気かんきはなつかとおもはしむるまでに、その薄明うすあかりさらさるる夜のちまたほとんど氷らんとすなり。

人このうちに立ちて寥々冥々りようりようめいめいたる四望の間に、いかでの世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重きゆうちようの天、八際はつさいの地、始めて混沌こんとんさかひでたりといへども、万物いまことごと化生かせいせず、風はこころみに吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫ただみだり※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)ひろよこたはれるに過ぎざるかな 日のうち宛然さながら沸くが如く楽み、うたひ、ひ、たはむれ、よろこび、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等ははかなくも夏果てし孑孑ぼうふりの形ををさめて、今将いまはた何処いづく如何いかにして在るかを疑はざらんとするもかたからずや。 多時しばらく静なりしのちはるかに拍子木の音は聞えぬ。 その響の消ゆる頃たちまち一点の燈火ともしびは見えめしが、揺々ゆらゆらと町の尽頭はづれ横截よこぎりてせぬ。 再び寒き風はさびしき星月夜をほしいままに吹くのみなりけり。 唯有とある小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間ひあはひの下水口より噴出ふきいづる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温ぬくもりの四方にあふるるとともに、垢臭あかくさき悪気のさかんほとばしるにへる綱引の車あり。 勢ひでかどより曲り来にければ、避くべき遑無いとまなくてその中を駈抜かけぬけたり。

「うむ、臭い」

車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。

「もう湯は抜けるのかな」

「へい、松の内は早仕舞でございます」

車夫のかく答へし後はことば絶えて、車は驀直ましぐらに走れり、紳士は二重外套にじゆうがいとうそでひし掻合かきあはせて、かはうそ衿皮えりかはの内に耳より深くおもてうづめたり。 灰色の毛皮の敷物のはしを車の後に垂れて、横縞よこじま華麗はなやかなる浮波織ふはおり蔽膝ひざかけして、提灯ちようちん徽章しるしはTの花文字を二個ふたつ組合せたるなり。 行き行きて車はこの小路の尽頭はづれを北に折れ、やや広きとほりでしを、わづかに走りて又西にり、その南側の半程なかほど箕輪みのわしるしたる軒燈のきラムプを掲げて、※(「炎+りっとう」、第3水準1-14-64)そぎだけを飾れる門構もんがまへの内に挽入ひきいれたり。 玄関の障子に燈影ひかげしながら、格子こうし鎖固さしかためたるを、車夫は打叩うちたたきて、

「頼む、頼む」

奥のかたなる響動どよみはげしきに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せておとなひつつ、格子戸を連打つづけうちにすれば、やがて急足いそぎあしの音立てて人はぬ。

円髷まるわげに結ひたる四十ばかりのちひさせて色白き女の、茶微塵ちやみじんの糸織の小袖こそでに黒の奉書紬ほうしよつむぎの紋付の羽織着たるは、この家の内儀ないぎなるべし。 彼のせはしげに格子をあくるを待ちて、紳士は優然と内にらんとせしが、土間の一面に充満みちみちたる履物はきものつゑを立つべき地さへあらざるにためらへるを、彼はすかさず勤篤まめやか下立おりたちて、この敬ふべきまらうどの為にからくも一条の道を開けり。 かくて紳士の脱捨てし駒下駄こまげたのみはひとり障子の内に取入れられたり。

(一)の二

箕輪みのわの奥は十畳の客間と八畳の中のとを打抜きて、広間の十個処じつかしよ真鍮しんちゆう燭台しよくだいを据ゑ、五十目掛めかけ蝋燭ろうそくは沖の漁火いさりびの如く燃えたるに、間毎まごとの天井に白銅鍍ニッケルめつきの空気ラムプをともしたれば、四辺あたりは真昼よりあきらかに、人顔もまばゆきまでに耀かがやわたれり。 三十人に余んぬる若き男女なんによ二分ふたわかれに輪作りて、今をさかり歌留多遊かるたあそびるなりけり。 蝋燭のほのほと炭火の熱と多人数たにんず熱蒸いきれと混じたる一種の温気うんきほとんど凝りて動かざる一間の内を、たばこけふり燈火ともしびの油煙とはたがひもつれて渦巻きつつ立迷へり。 込合へる人々のおもては皆赤うなりて、白粉おしろい薄剥うすはげたるあり、髪のほつれたるあり、きぬ乱次しどな着頽きくづれたるあり。 女はよそほひ飾りたれば、取乱したるがことに著るく見ゆるなり。 男はシャツのわきの裂けたるも知らで胴衣ちよつきばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をばよつまで紙にてひたるもあり。 さしも息苦き温気うんきも、むせばさるるけふりの渦も、皆狂して知らざる如く、むしろ喜びてののしわめく声、笑頽わらひくづるる声、捩合ねぢあひ、踏破ふみしだひしめき、一斉に揚ぐる響動どよみなど、絶間無き騒動のうち狼藉ろうぜきとしてたはむれ遊ぶ為体ていたらく三綱五常さんこうごじよう糸瓜へちまの皮と地にまびれて、ただこれ修羅道しゆらどう打覆ぶつくりかへしたるばかりなり。

海上風波の難にへる時、若干そくばくの油を取りて航路にそそげば、なみくしくもたちましづまりて、船は九死をづべしとよ。 今この如何いかにともべからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王によおうあり。 たけびに猛ぶ男たちの心もその人の前にはやはらぎて、つひに崇拝せざるはあらず。 女たちは皆そねみつつもおそれいだけり。 中の間なる団欒まどゐ柱側はしらわきに座を占めて、おもげにいただける夜会結やかいむすび淡紫うすむらさきのリボンかざりして、小豆鼠あづきねずみ縮緬ちりめんの羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりて、みづからしとやかに引繕ひきつくろへる娘あり。 粧飾つくりより相貌かほだちまで水際立みづぎはたちて、ただならずこびを含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。

前編

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金色夜叉 - 情報

金色夜叉

こんじきやしゃ

文字数 250,652文字

著者リスト:
著者尾崎 紅葉

底本 金色夜叉

青空情報


底本:「金色夜叉」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年11月10日発行
   1998(平成10)年1月15日第39刷
初出:「読売新聞」
   1897(明治30)年1月1日〜1902(明治35)年5月11日
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「市(いち)ヶ谷(や)」「児(ちご)ヶ淵(ふち)」「竜(りゆう)ヶ鼻(はな)」は小振りに、「一ヶ年分」は大振りに、つくっています。
※誤植を疑った箇所を、初出単行本「金色夜叉 續篇」春陽堂、1902(明治35)年4月28日発行の表記にそって、あらためました。
2000年2月23日公開
2024年2月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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