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高野聖

著者:泉鏡花

こうやひじり - いずみ きょうか

文字数:35,666 底本発行年:1972
著者リスト:
著者泉 鏡花
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参謀さんぼう本部編纂へんさんの地図をまた繰開くりひらいて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手をさわるさえ暑くるしい、旅の法衣ころもそでをかかげて、表紙をけた折本になってるのを引張ひっぱり出した。

飛騨ひだから信州へえる深山みやまの間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立こだちも無い、右も左も山ばかりじゃ、手をばすととどきそうなみねがあると、その峰へ峰が乗り、いただきかぶさって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。

道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午しょうごと覚しい極熱ごくねつの太陽の色も白いほどにえ返った光線を、深々といただいた一重ひとえ檜笠ひのきがさしのいで、こう図面を見た。」

旅僧たびそうはそういって、握拳にぎりこぶしを両方まくらに乗せ、それで額を支えながら俯向うつむいた。

道連みちづれになった上人しょうにんは、名古屋からこの越前敦賀えちぜんつるが旅籠屋はたごやに来て、今しがた枕に就いた時まで、わたしが知ってる限り余り仰向あおむけになったことのない、つまり傲然ごうぜんとして物を見ないたちの人物である。

一体東海道掛川かけがわ宿しゅくから同じ汽車に乗り組んだと覚えている、腰掛こしかけすみこうべを垂れて、死灰しかいのごとくひかえたから別段目にも留まらなかった。

尾張おわり停車場ステイションほかの乗組員は言合いいあわせたように、残らず下りたので、はこの中にはただ上人と私と二人になった。

この汽車は新橋を昨夜九時半にって、今夕こんせき敦賀に入ろうという、名古屋では正午ひるだったから、飯に一折のすしを買った。 旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、ふたを開けると、ばらばらと海苔のりかかった、五目飯ちらしの下等なので。

(やあ、人参にんじん干瓢かんぴょうばかりだ。)と粗忽そそッかしく絶叫ぜっきょうした。 私の顔を見て旅僧はこらえ兼ねたものと見える、くっくっと笑い出した、もとより二人ばかりなり、知己ちかづきにはそれからなったのだが、聞けばこれから越前へ行って、派はちがうが永平寺えいへいじに訪ねるものがある、ただし敦賀に一ぱくとのこと。

若狭わかさへ帰省する私もおなじところとまらねばならないのであるから、そこで同行の約束やくそくが出来た。

かれは高野山こうやさんせきを置くものだといった、年配四十五六、柔和にゅうわななんらのも見えぬ、なつかしい、おとなしやかな風采とりなりで、羅紗らしゃ角袖かくそで外套がいとうを着て、白のふらんねるの襟巻えりまきをしめ、土耳古形トルコがたぼうかぶり、毛糸の手袋てぶくろめ、白足袋しろたび日和下駄ひよりげたで、一見、僧侶そうりょよりは世の中の宗匠そうしょうというものに、それよりもむしろ俗か。

(お泊りはどちらじゃな、)といって聞かれたから、私は一人旅の旅宿のつまらなさを、しみじみ歎息たんそくした、第一ぼんを持って女中が坐睡いねむりをする、番頭が空世辞そらせじをいう、廊下ろうか歩行あるくとじろじろ目をつける、何より最もがたいのは晩飯の支度したくが済むと、たちまちあかり行燈あんどんえて、薄暗うすぐらい処でお休みなさいと命令されるが、私は夜がけるまでることが出来ないから、その間の心持といったらない、ことにこのごろは夜は長し、東京を出る時から一晩のとまりが気になってならないくらい、差支さしつかえがなくば御僧おんそうとご一所いっしょに。

快くうなずいて、北陸地方を行脚あんぎゃの節はいつでもつえを休める香取屋かとりやというのがある、もとは一けん旅店りょてんであったが、一人女ひとりむすめの評判なのがなくなってからは看板をはずした、けれどもむかしから懇意こんいな者は断らず泊めて、老人としより夫婦が内端うちわに世話をしてくれる、よろしくばそれへ、そのかわりといいかけて、折を下に置いて、

(ご馳走ちそうは人参と干瓢ばかりじゃ。)

とからからと笑った、つつしみ深そうな打見うちみよりは気の軽い。

岐阜ぎふではまだ蒼空あおぞらが見えたけれども、後は名にし負う北国空、米原まいばら長浜ながはま薄曇うすぐもりかすかに日がして、寒さが身に染みると思ったが、やなでは雨、汽車の窓が暗くなるに従うて、白いものがちらちらまじって来た。

(雪ですよ。)

(さようじゃな。)といったばかりで別に気に留めず、あおいで空を見ようともしない、この時に限らず、しずたけが、といって、古戦場を指した時も、琵琶湖びわこの風景を語った時も、旅僧はただ頷いたばかりである。

敦賀で悚毛おぞけの立つほどわずらわしいのは宿引やどひき悪弊あくへいで、その日も期したるごとく、汽車をおりると停車場ステイションの出口から町端まちはなへかけて招きの提灯ちょうちん印傘しるしがさつつみを築き、潜抜くぐりぬけるすきもあらなく旅人を取囲んで、かまびすしくおの家号やごう呼立よびたてる、中にもはげしいのは、素早すばやく手荷物を引手繰ひったくって、へい難有ありがとさまで、をくらわす、頭痛持は血が上るほどこらえ切れないのが、例の下を向いて悠々ゆうゆう小取廻ことりまわしに通抜とおりぬける旅僧は、たれも袖をかなかったから、幸いその後にいて町へ入って、ほっという息をいた。

雪は小止おやみなく、今は雨も交らず乾いた軽いのがさらさらとおもてを打ち、よいながらかどとざした敦賀のとおりはひっそりして一条二条縦横たてよこに、つじの角は広々と、白く積った中を、道のほど八町ばかりで、とある軒下のきした辿たどり着いたのが名指なざしの香取屋。

とこにも座敷ざしきにもかざりといっては無いが、柱立はしらだちの見事な、たたみかたい、の大いなる、自在鍵じざいかぎこいうろこ黄金造こがねづくりであるかと思わるるつやを持った、ばらしいへッついを二ツならべて一斗飯いっとめしけそうな目覚めざましいかまかかった古家ふるいえで。

亭主は法然天窓ほうねんあたま、木綿の筒袖つつそでの中へ両手の先をすくまして、火鉢ひばちの前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁おやじ女房にょうぼうの方は愛嬌あいきょうのある、ちょっと世辞のいいばあさん、くだんの人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、にこにこ笑いながら、縮緬雑魚ちりめんざこと、かれい干物ひものと、とろろ昆布こんぶ味噌汁みそしるとでぜんを出した、物の言振いいぶり取成とりなしなんど、いかにも、上人しょうにんとは別懇べっこんの間と見えて、つれの私の居心いごころのいいといったらない。

やがて二階に寝床ねどここしらえてくれた、天井てんじょうは低いが、うつばりは丸太で二抱ふたかかえもあろう、屋のむねからななめわたって座敷のはてひさしの処では天窓あたまつかえそうになっている、巌乗がんじょう屋造やづくり、これなら裏の山から雪崩なだれが来てもびくともせぬ。

特に炬燵こたつが出来ていたから私はそのままうれしく入った。 寝床はもう一組おなじ炬燵にいてあったが、旅僧はこれにはきたらず、横に枕を並べて、火の気のない臥床ねどこに寝た。

寝る時、上人は帯を解かぬ、もちろん衣服もがぬ、着たまままるくなって俯向形うつむきなりに腰からすっぽりと入って、かた夜具やぐそでけると手をいてかしこまった、その様子ようすは我々と反対で、顔に枕をするのである。

ほどなく寂然ひっそりとしてに就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚なすった内のおもしろいはなしをといって打解うちとけておさならしくねだった。

すると上人は頷いて、わしは中年から仰向けに枕に就かぬのがくせで、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴えている、急に寐就かれないのはお前様とおんなじであろう。 出家しゅっけのいうことでも、おしえだの、いましめだの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。 後で聞くと宗門名誉しゅうもんめいよの説教師で、六明寺りくみんじ宗朝しゅうちょうという大和尚だいおしょうであったそうな。

「今にもう一人ここへ来て寝るそうじゃが、お前様と同国じゃの、若狭の者で塗物ぬりもの旅商人たびあきんど いやこの男なぞは若いが感心に実体じっていい男。

わたしが今話の序開じょびらきをしたその飛騨の山越やまごえをやった時の、ふもとの茶屋で一緒いっしょになった富山とやまの売薬というやつあ、けたいの悪い、ねじねじしたいや壮佼わかいもので。

まずこれからとうげかかろうという日の、朝早く、もっともせんとまりはものの三時ぐらいにはって来たので、涼しい内に六里ばかり、その茶屋までのしたのじゃが朝晴でじりじり暑いわ。

慾張よくばり抜いて大急ぎで歩いたからのどかわいてしようがあるまい、早速さっそく茶を飲もうと思うたが、まだ湯がいておらぬという。

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高野聖 - 情報

高野聖

こうやひじり

文字数 35,666文字

著者リスト:
著者泉 鏡花

底本 ちくま日本文学全集 泉鏡花

親本 現代日本文學大系 5 樋口一葉・明治女流文學・泉鏡花集

青空情報


底本:「ちくま日本文学全集 泉鏡花」筑摩書房
   1991(平成3)年10月20日 第1刷
   1995(平成7)年8月15日 第2刷
底本の親本:「現代日本文学大系5」筑摩書房
   1972(昭和47)年5月15日
初出:「新小説 第五年第三巻」春陽堂
   1900(明治33)年2月1日
入力:真先芳秋
校正:林めぐみ
1999年1月30日公開
2012年4月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:高野聖

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