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源氏物語 41 御法

著者:紫式部

げんじものがたり - むらさき しきぶ

文字数:10,701 底本発行年:1971
著者リスト:
著者紫式部
翻訳者与謝野 晶子
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序章-章なし

なほ春のましろき花と見ゆれどもとも

に死ぬまで悲しかりけり  (晶子)

紫夫人はあの大病以後病身になって、どこということもなく始終わずらっていた。 たいした悪い容体になるのではなかったが、すぐれない、同じような不健康さが一年余りも続いた今では目に立って弱々しい姿になったことで、院は非常に心痛をしておいでになった。 しばらくでもこの人の死んだあとのこの世にいるのは悲しいことであろうと知っておいでになったし、夫人自身も人生の幸福には不足を感じるところとてもなく、気がかりな思いの残る子もない人なのであるから、こまやかに思い合った過去を持っていて自分の先に欠けてしまうことは、院をどんなに不幸なお心持ちにすることであろうという点だけを心の中で物哀れに感じているのであった。 未来の世のためにと思って夫人は功徳になることを多くしながらも、やはり出家して今後しばらくでも命のある間は仏勤めを十分にしたいということを始終院へお話しして、夫人は許しを得たがっているのであるが、院は御同意をあそばさなかった。 それは院御自身にも出家は希望していられることなのであるが、夫人が熱心にそうしたいと言っている時に、御自身もいっしょにそれを断行しようかというお心もないではないものの、いったん仏道にはいった以上は、仮にもこの世を顧みることはしたくないというお考えで、未来の世では一つの蓮華れんげの上に安住しようと約束しておいでになる御夫婦であっても、この世での出家後の生活は全然区別を立てたものにせねばならぬという御本意から、こうして病弱な身体からだになってしまった夫人と、離れておしまいになることは気がかりで、悟道にはいった新生活も内から破れていくことを院は恐れて躊躇ちゅうちょをしておいでになるのである。 結局は深い考えもなく簡単に出家してしまう人よりも、道にはいることが遅れるわけである。 院の同意されぬのを見ぬ顔にして尼になってしまうことも見苦しいことであるし、自分の心にも満足のできぬことであろうからと思って、この点で夫人は院をお恨めしく思った。 また自分自身も前生の罪の深いものであろうと不安がりもした。 以前から自身のがん果たしのために書かせてあった千部の法華ほけ経の供養を夫人はこの際することとした。 自邸のような気のする二条の院でこの催しをすることにした。 七僧の法服をはじめとして、以下の僧へ等差をつけて纏頭てんとうにする僧服類をことに精撰して夫人は作らせてあった。 そのほかのすべてのことにも費用を惜しまぬ行き届いた仏事の準備ができているのである。 内輪うちわ事のように言っていたので、院はみずから計画に参加あそばさなかったが、女の催しでこれほど手落ちなく事の運ばれることは珍しいほどに万事のととのったのをお知りになって、仏道のほうにも深い理解のあることで夫人をうれしく思召した院は、御自身の手ではただ来賓を饗応きょうおうする座敷の装飾その他のことだけをおさせになった。 音楽舞曲のほうのことは左大将が好意で世話をした。 宮中、東宮、院のきさきの宮、中宮ちゅうぐうをはじめとして、法事へ諸家からの誦経ずきょうの寄進、ささげ物なども大がかりなものが多いばかりでなく、この法会ほうえに志を現わしたいと願わない世人もない有様であったから、華麗な仏会の式場が現出したわけである。 いつの間にこの大部の経巻等を夫人が仕度したくしたかと参列者は皆驚いた。 長い年月を使った夫人の志に敬服したのである。 花散里はなちるさと夫人、明石あかし夫人なども来会した。 南と東の戸をあけて夫人は聴聞の席にした。 それは寝殿の西の内蔵うちぐらであった。 北側の部屋へやに各夫人の席を襖子からかみだけの隔てで設けてあった。

三月の十日であったから花の真盛まっさかりである。 天気もうららかで暖かい日なので、快くて御仏みほとけのおいでになる世界に近い感じもすることから、あさはかな人たちすらも思わず信仰にはいる機縁を得そうであった。 たきぎこる(法華ほけ経はいかにして得し薪こり菜摘み水みかくしてぞ得し)歌を同音に人々が唱える声の終わって、今までと反対に式場の静まりかえる気分は物哀れなものであるが、まして病になっている夫人の心は寂しくてならなかった。 明石夫人の所へ女王にょおうは三の宮にお持たせして次の歌を贈った。

惜しからぬこの身ながらも限りとてたきぎ尽きなんことの悲しさ

夫人の心細い気持ちに共鳴したふうのものを返しにしては、認識不足を人からそしられることであろうと思って、明石はそれに触れなかった。

薪こる思ひは今日を初めにてこの世に願ふのりぞはるけき

経声も楽音も混じっておもしろく夜は明けていくのであった。 朝ぼらけのもやの間にはいろいろの花の木がなお女王の心を春にきとどめようと絢爛けんらんの美を競っていたし春の小鳥のさえずりも笛の声に劣らぬ気がして、身にしむこともおもしろさもきわまるかと思われるころに、「陵王りょうおう」が舞われて、殿上の貴紳たちが舞い人へ肩から脱いで与える纏頭てんとうの衣服の色彩などもこの朝はただ美しくばかり思われた。 親王がた、高官らも音楽に名のある人はみずからその芸を惜しまずこの場で見せて遊んだ。 上から下まで来会者が歓楽に酔っているのを見ても、余命の少ないことを知っている夫人の心だけは悲しかった。

昨日は例外に終日起きていたせいか夫人は苦しがって横になっていた。 これまでこうしたおりごとに必ず集まって来て、音楽舞楽の何かの一役を勤める人たちの容貌ようぼう風采ふうさいにも、その芸にもうことが今日で終わるのかというようなことばかりが思われる夫人であったから、平生は注意の払われない顔も目にとまって、少しのことにも物哀れな気持ちが誘われて来賓席を夫人は見渡しているのであった。 まして四季の遊び事に競争心は必ずあっても、さすがに長くつちかわれた友情というもののあった夫人たちに対しては、だれも永久に生き残る人はないであろうが、まず自分一人がこの中から消えていくのであると思われるのが女王の心に悲しかった。 宴が終わってそれぞれの夫人が帰って行く時なども、生死の別れほど別れが惜しまれた。 花散里夫人の所へ、

序章-章なし
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源氏物語 - 情報

源氏物語 41 御法

げんじものがたり 41 みのり

文字数 10,701文字

著者リスト:
著者紫式部
翻訳者与謝野 晶子

底本 全訳源氏物語 中巻

青空情報


底本:「全訳源氏物語 中巻」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年11月30日改版初版発行
   1994(平成6)年6月15日39版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年1月15日44版を使用しました。
入力:上田英代
校正:柳沢成雄
2003年10月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:源氏物語

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