序章-章なし
武士道は斜面緩かなる山なり。
されど、此処彼処に往々急峻なる地隙、または峻坂なきにしも非らず。
この山は、これに住む人の種類に従って、ほぼ五帯に区分するを得べし。
その麓に蝟族する輩は、慄悍なる精神と、不紀律なる体力とを有して、獣力に誇り、軽微なる憤怒にもこれを試みんと欲する粗野漢、匹夫の徒なり。
彼らはいわゆる「野猪武者」にして、戦時には軍隊の卒伍を成し、平時には社会の乱子たり。
更に歩を転ずれば、ここに他種の人の住するを見る。
山麓叢林の住民よりも進歩したる一階級の民なり。
彼らは獣力に荒まず。
野猪の族と異りて、放肆なる残虐また悪戯を楽しみとせずといえども、なおその限られたる勢力を行わんことを喜びとなし、傲岸尊大にして、子分に対しての親分たるを好む。
その最も快とするところは、自己の威信あるを感ずること、即ち人より服従せらるる事なり。
最も彼れを憤懣せしむるものは、その権力の侵害せらるること、即ち抑圧を蒙ることなり。
彼らは戦場に在りては勇敢なる下士となり、平時には最も厭うべき俗吏となる。
この類の住地よりも高くして更に一帯あり。
その住民は、野獣的にもあらず、また傲慢にもあらず。
多少の学術を愛し、書を読み――多くは経済法律の初歩を学びて、しかして喋々大問題を論ず。
その眼界は法律政治の外に出でず。
その文学は小説と三文詩歌とに限られ、科学は新聞紙上にて読むものの以外に少しも留意せず。
彼らの態度は、「野猪」の粗野と、彼らの直下にある者の厳峻とを脱して、その仲間の者には便安に、上級者に対しては窮屈に、下級者に対しては威張る。
彼らは真髄武士道の新参者と称すべく、その数や多大なり。
彼らの中よりして軍隊の将校を出し、また政府の事務を掌るの公吏を出す。
更に高き処に一地区あり、ここには武士中高等なる階級の者繁栄し、軍隊の将軍と、日常生活に於ける思想行為の指導者とを有す。
下に在る者には愛せられて、常に威厳を保ち、上に在る者には丁重にして、決して自信を失わず。
されど彼らの紳士的態度の皮下には、柔和なるよりも寧ろ多くの厳格なるものを有し、彼らの親切には、同情よりも寧ろ多くの自覚的謙譲あり。
彼らの至高なる精神的態度は、愛情よりも寧ろ多くの憐愍を示す。
彼らは汝に語るに親切聡明なる事物を以てし、汝はその意を解し、その語を記憶す。
されど彼らの声は汝らの裏に生きて存留せず。
彼らの汝を見るや、汝はその眼光の透徹なるに驚く。
されど彼らの眼の鮮光は、彼らの汝を去ると共に消ゆ。
汝は峻険崎嶇たる山径を攀じ、至高の地帯に登りて、武士の最高なる者を見んとする乎。
此処に在りては、汝を迎うるに、頗る柔和なる民族の毫も軍人的ならず、その容貌態度殆ど婦人に類するものあり。
汝は彼らを見て武夫なるや否やを疑わんとす。
汝は一見以て彼らを凡人視することもあらん。
彼らは尊大ならず。
汝は容易に彼らに近づくを得べく、彼らの親み易きが故に、狎れ易しとなさん。
されど汝は近づかざらんとするも能わざるが故に、彼らに接し来ることなるを知らん。
彼らは貴賤、大小、老幼、賢愚と等しく交わり、その態度は嫺雅優美なりというもおろか、愛情はその目より輝き、その唇に震う。
彼らの来るや、爽然たる薫風吹き渡り、彼らの去るや、吾人が心裡の暖気なお存す。
学を衒わずして教え、恩を加えずして保護し、説かずして化し、助けずして補い、施さずして救い、薬餌を与えずして癒し、論破せずして信服せしむ。
彼らは小児の如く戯れかつ笑う。