父帰る
著者:菊池寛
ちちかえる - きくち かん
文字数:7,607 底本発行年:1988
人物
黒田賢一郎 二十八歳
その弟 新二郎 二十三歳
その妹 おたね 二十歳
彼らの母 おたか 五十一歳
彼らの父 宗太郎
時
明治四十年頃
所
南海道の海岸にある小都会
情景 中流階級のつつましやかな家、六畳の間、正面に箪笥があって、その上に目覚時計が置いてある。
前に長火鉢あり、薬缶から湯気が立っている。
賢一郎 おたあさん、おたねはどこへ行ったの。
母 仕立物を届けに行った。
賢一郎 まだ仕立物をしとるの。
もう人の
母 そうやけど嫁入りの時に、一枚でも余計ええ着物を持って行きたいのだろうわい。
賢一郎 (新聞の裏を返しながら)この間いうとった口はどうなったの。
母 たねが、ちいと相手が気に入らんのだろうわい。 向こうはくれくれいうてせがんどったんやけれどものう。
賢一郎 財産があるという人やけに、ええ口やがなあ。
母 けんど、一万や、二万の財産は使い出したら何の役にもたたんけえな。
賢一郎 (不快なる記憶を呼び起したるごとく黙している)……。
母 私は自分で
賢一郎 財産があって、人間がよけりゃ、なおいいでしょう。
母 そんなことが望めるもんけ。
おたねがなんぼ器量よしでも、
賢一郎 おたねも、お父さんのために子供の時ずいぶん苦労をしたんやけに、嫁入りの支度だけでもできるだけのことはしてやらないかん。 私たちの貯金が千円になったら半分はあれにやってもええ。
母 そんなにせいでも、三百円かけてやったらええ。 その後でお前にも嫁を貰うたらわしも一安心するんや。 わしは亭主運が悪かったけど子供運はええいうて皆いうてくれる。