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源氏物語 12 須磨

著者:紫式部

げんじものがたり - むらさき しきぶ

文字数:25,013 底本発行年:1971
著者リスト:
著者紫式部
翻訳者与謝野 晶子
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序章-章なし

人恋ふる涙をわすれ大海へ引かれ行く

べき身かと思ひぬ     (晶子)

当帝の外戚の大臣一派が極端な圧迫をして源氏に不愉快な目を見せることが多くなって行く。 つとめて冷静にはしていても、このままで置けば今以上なわざわいが起こって来るかもしれぬと源氏は思うようになった。 源氏が隠栖いんせいの地に擬している須磨すまという所は、昔は相当に家などもあったが、近ごろはさびれて人口も稀薄きはくになり、漁夫の住んでいる数もわずかであると源氏は聞いていたが、田舎いなかといっても人の多い所で、引き締まりのない隠栖になってしまってはいやであるし、そうかといって、京にあまり遠くては、人には言えぬことではあるが夫人のことが気がかりでならぬであろうしと、煩悶はんもんした結果須磨へ行こうと決心した。 この際は源氏の心に上ってくる過去も未来も皆悲しかった。 いとわしく思った都も、いよいよ遠くへ離れて行こうとする時になっては、捨て去りがたい気のするものの多いことを源氏は感じていた。 その中でも若い夫人が、近づく別れを日々に悲しんでいる様子の哀れさは何にもまさっていたましかった。 この人とはどんなことがあっても再会を遂げようという覚悟はあっても、考えてみれば、一日二日の外泊をしていても恋しさに堪えられなかったし、女王にょおうもその間は同じように心細がっていたそんな間柄であるから、幾年と期間の定まった別居でもなし、無常の人世では、仮の別れが永久の別れになるやも計られないのであると、源氏は悲しくて、そっといっしょに伴って行こうという気持ちになることもあるのであるが、そうした寂しい須磨のような所に、海岸へ波の寄ってくるほかは、人の来訪することもない住居すまいに、この華麗な貴女きじょ同棲どうせいしていることは、あまりに不似合いなことではあるし、自身としても妻のいたましさに苦しまねばならぬであろうと源氏は思って、それはやめることにしたのを、夫人は、

「どんなひどい所だって、ごいっしょでさえあれば私はいい」

と言って、行きたい希望のこばまれるのを恨めしく思っていた。

花散里はなちるさとの君も、源氏の通って来ることは少なくても、一家の生活は全部源氏の保護があってできているのであるから、この変動の前に心をいためているのはもっともなことと言わねばならない。 源氏の心にたいした愛があったのではなくても、とにかく情人として時々通って来ていた所々では、人知れず心をいためている女も多数にあった。 入道の宮からも、またこんなことで自身の立場を不利に導く取り沙汰が作られるかもしれぬという遠慮を世間へあそばしながらの御慰問が始終源氏にあった。 昔の日にこの熱情が見せていただけたことであったならと源氏は思って、この方のために始終物思いをせねばならぬ運命が恨めしかった。 三月の二十幾日に京を立つことにしたのである。 世間へは何とも発表せずに、きわめて親密に思っている家司けいし七、八人だけを供にして、簡単な人数で出かけることにしていた。 恋人たちの所へは手紙だけを送って、ひそかに別れを告げた。 形式的なものでなくて、真情のこもったもので、いつまでも自分を忘れさすまいとした手紙を書いたのであったから、きっと文学的におもしろいものもあったに違いないが、その時分に筆者はこのいたましい出来事に頭を混乱させていて、それらのことを注意して聞いておかなかったのが残念である。

出発前二、三日のことである、源氏はそっと左大臣家へ行った。 簡単な網代車あじろぐるまで、女の乗っているようにして奥のほうへ寄っていることなども、近侍者には悲しい夢のようにばかり思われた。 昔使っていた住居すまいのほうは源氏の目に寂しく荒れているような気がした。 若君の乳母めのとたちとか、昔の夫人の侍女で今も残っている人たちとかが、源氏の来たのを珍しがって集まって来た。 今日の不幸な源氏を見て、人生の認識のまだ十分できていない若い女房なども皆泣く。 かわいい顔をした若君がふざけながら走って来た。

「長く見ないでいても父を忘れないのだね」

と言って、ひざの上へ子をすわらせながらも源氏は悲しんでいた。 左大臣がこちらへ来て源氏にった。

「おひまな間に伺って、なんでもない昔の話ですがお目にかかってしたくてなりませんでしたものの、病気のために御奉公もしないで、官庁へ出ずにいて、私人としては暢気のんきに人の交際もすると言われるようでは、それももうどうでもいいのですが、今の社会はそんなことででもなんらかの危害が加えられますからこわかったのでございます。 あなたの御失脚を拝見して、私は長生きをしているから、こんな情けない世の中も見るのだと悲しいのでございます。 末世です。 天地をさかさまにしてもありうることでない現象でございます。 何もかも私はいやになってしまいました」

としおれながら言う大臣であった。

「何事も皆前生の報いなのでしょうから、根本的にいえば自分の罪なのです。 私のように官位を剥奪はくだつされるほどのことでなくても、勅勘ちょっかんの者は普通人と同じように生活していることはよろしくないとされるのはこの国ばかりのことでもありません。 私などのは遠くへ追放するという条項もあるのですから、このまま京におりましてはなおなんらかの処罰を受けることと思われます。 冤罪えんざいであるという自信を持って京に留まっていますことも朝廷へ済まない気がしますし、今以上の厳罰にあわない先に、自分から遠隔の地へ移ったほうがいいと思ったのです」

などと、こまごま源氏は語っていた。

序章-章なし
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源氏物語 - 情報

源氏物語 12 須磨

げんじものがたり 12 すま

文字数 25,013文字

著者リスト:
著者紫式部
翻訳者与謝野 晶子

底本 全訳源氏物語 上巻

青空情報


底本:「全訳源氏物語 上巻」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年8月10日改版初版発行
   1994(平成6)年12月20日56版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年4月5日71版を使用しました。
入力:上田英代
校正:砂場清隆
2003年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:源氏物語

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