鮎の食い方
著者:北大路魯山人
あゆのくいかた - きたおおじ ろさんじん
文字数:2,251 底本発行年:1993
いろいろな事情で、ふつうの家庭では、鮎を美味く食うように料理はできない。
鮎はまず三、四寸ものを塩焼きにして食うのが本手であろうが、生きた鮎や新鮮なものを手に入れるということが、家庭ではできにくい。
地方では、ところによりこれのできる家庭もあろうが、東京では絶対にできないといってよい。
東京の状況がそうさせるのである。
仮に生きた鮎が手に入るとしても、
鮎といえば、一般に水を切ればすぐ死んでしまうという印象を与えている。
だから、非常にひよわなさかなのように思われているが、その実、鮎は
もちろん、ふつうの家庭で用いているような、やわらかい炭ではうまく焼けない。
こういうわけで、家庭で
いったい、なんによらず、味の感覚と形の美とは切っても切れない関係にあるもので、鮎においては、ことさらに形態美を大事にすることが大切だ。
鮎は
鮎は容姿が美しく、光り輝いているものほど、味においても上等である。 それだけに、焼き方の手際のよしあしは、鮎食いにとって決定的な要素をもっている。
美味く食うには、勢い産地に行き、一流どころで食う以外に手はない。 一番理想的なのは、釣ったものを、その場で焼いて食うことだろう。
鮎は塩焼にして食うのが一般的になっているが、上等の鮎を洗いづくりにして食うことも非常なご
私がまだ子どもで、京都にいた頃のことであった。 ある日、魚屋が鮎の頭と骨ばかりをたくさん持ってきた。 鮎の身を取った残りのもの、つまり鮎のあらだ。 小魚のあらなんていうのはおかしいが、なんといっても鮎であるから、それを焼いてだしにするとか、または焼き豆腐やなにかといっしょに煮て食うと美味いにはちがいない。
それにしても、こんなにたくさんあるとはいったいどういうわけだろうと、子ども心にふしぎに思って聞いてみた。
すると、魚屋のいうのには、京都の
私はずいぶんぜいたくなことをする人もいるものだなあと驚き、かつ感心した。
それ以来、鮎を洗いにつくって食う法もあるということを覚えた。
しかし、その後ずっと貧乏書生であった私には、そんなぜいたくは許されず、食う機会がなかった。
それでも、今からもう二十五年も昔になるが、
山中温泉の町はずれに、
そんなわけで、私はよく増喜楼へ人といっしょに食いに行った。
そうした