蘭学事始
著者:菊池寛
らんがくことはじめ - きくち かん
文字数:15,403 底本発行年:1988
一
杉田玄白が、新大橋の中邸を出て、本石町三丁目の長崎屋源右衛門方へ着いたのは、
が、顔馴染みの番頭に案内されて、通辞、西善三郎の部屋へ通って見ると、昨日と同じように、良沢はもうとっくに来たと見え、悠然と座り込んでいた。
玄白は、善三郎に挨拶を済すと、良沢の方を振り向きながら、
「お早う! 昨日は、失礼いたし申した」と、挨拶した。
が、良沢は、光沢のいい総髪の頭を軽く下げただけで、その白皙な、鼻の高い、薄
玄白は、毎度のことだったが、ちょっと嫌な気がした。
彼は、中津侯の医官である前野良沢の名は、かねてから知っていた。 そして、その篤学の評判に対しても、かなり敬意を払っていた。 が、親しく会って見ると、不思議にこの人に親しめなかった。
彼は、今までに五、六度も、ここで良沢と一座した。 去年カピタンがここの旅館に逗留していた時にも、二度ばかり落ち合ったことがある。 今年も月の二十日に、カピタンが江戸に着いてから今日で七日になる間、玄白は三、四度も、良沢と一座した。
それでいて、彼はどうにもこの人に親しめなかった。
それかといって、彼は良沢を嫌っているのでもなければ、憎んでいるのでもなかった。
ただ、一座するたびに、彼は良沢から、妙な威圧を感じた。
彼は、良沢と一座していると、良沢がいるという意識が、彼の神経にこびりついて離れなかった。
良沢の一挙一動が気になった。
彼の一
それだのに、相手の良沢が、自分のことなどはほとんど眼中に置いていないような態度を見ると、玄白は良沢に対する心持を、いよいよこじらせてしまわずにはおられなかった。
長崎表での蘭館への
従って、オランダ流の医術、
ことに御医術の野呂玄丈や、山形侯の医官安富寄碩、同藩の中川淳庵、蔵前の札差で好事の名を取った青野長兵衛、讃岐侯の浪人平賀源内、御坊主の細井其庵、御儒者の大久保水湖などの顔が見えぬことは希だった。
そうした一座は、おぼつかない内通辞を通じて、カピタンにいろいろな質問をした。 それが、たいていはオランダの異風異俗についての、たわいもない愚問であることが多かった。 カピタンの答によって、それが愚問であることがわかると、皆は腹を抱えて笑った。
また、ウェールグラス(晴雨計)や、テルモメートル(寒暖計)や、ドンドルグラス(震雷験器)などを見せられると、彼らは、子供が珍しい玩具にでも接したように欣んで騒いだ。
が、こんな時、一座を冷然と
一座が、たわいもなく笑っても、彼のしっかりと閉された口は、容易にほころびなかった。
が、ある問題で、一座が問い疲れて、自然に静かになった頃に、良沢はきまって一つ二つ問いただした。
一座の者には、その質問の意味がわからないことさえ多かった。
が、カピタンが通辞からその質問を受け取ると、彼はいつもおどろいたように目を
一座の者は、良沢のそうした――彼一人高しとしているような態度を、少しも気に止めていないらしかったが、玄白だけは、それが妙に気になって仕方がなかった。
つい、昨日もこんなことがあった。 それはいってみれば、なんでもないことだが、カピタンのカランスが、座興のためだったのだろう、小さい袋を取り出して皆に示した。 通辞は、カピタンの意を受けて、こんなことをいった。
「カランス殿のいわれるには、この袋の口を、試みに開けて