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日和下駄 一名 東京散策記

著者:永井荷風

ひよりげた - ながい かふう

文字数:49,748 底本発行年:1981
著者リスト:
著者永井 荷風
親本: 荷風隨筆 二
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東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。 そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。 『日和下駄』は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌『三田文学』に連載したりしを、この度米刃堂へいじんどう主人のもとめにより改竄かいざんして一巻とはなせしなり。 ここにかく起稿の年月をあきらかにしたるはこの書はん成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところすくなからざらん事を思へばなり。 見ずや木造の今戸橋いまどばしはやくも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草つゆくさの花を見ず。 桜田御門外さくらだごもんそとまた芝赤羽橋むこう閑地あきちには土木の工事今まさにおこらんとするにあらずや。 昨日のふち今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、つたなきこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。

乙卯いつぼうの年晩秋

荷風小史

[#改丁]

第一 日和下駄

人並はずれてせいが高い上にわたしはいつも日和下駄ひよりげたをはき蝙蝠傘こうもりがさを持って歩く。 いかにく晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。 これは年中湿気しっけの多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。 変りやすいは男心に秋の空、それにおかみ御政事おせいじとばかりきまったものではない。 春の花見頃午前ひるまえの晴天は午後ひるすぎの二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。 梅雨つゆうちは申すに及ばず。 土用どようればいついかなる時驟雨しゅうう沛然はいぜんとしてきたらぬともはかりがたい。 もっともこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人がわりなきちぎりを結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむほろうち、しっぽり何処どこぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。 閑話休題それはさておき日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。 天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返こねかえ霜解しもどけも何のその。 アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通おおどおり、やたらにどぶの水をきちらす泥濘ぬかるみとて一向驚くには及ぶまい。

わたしはかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。

市中しちゅうの散歩は子供の時から好きであった。 十三、四の頃私のうちは一時小石川こいしかわから麹町永田町こうじまちながたちょうの官舎へ引移ひきうつった事があった。 勿論もちろん電車のない時分である。 私は神田錦町かんだにしきちょうの私立英語学校へかよっていたので、半蔵御門はんぞうごもん這入はいって吹上御苑ふきあげぎょえんの裏手なる老松ろうしょう鬱々たる代官町だいかんちょうとおりをばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら竹橋たけばしを渡って平川口ひらかわぐち御城門ごじょうもんを向うに昔の御搗屋おつきや今の文部省に沿うてひとばしへ出る。 この道程みちのりもさほど遠いとも思わず初めのうちは物珍しいのでかえって楽しかった。 宮内省くないしょう裏門の筋向すじむこうなる兵営に沿うた土手の中腹に大きなえのきがあった。 その頃その木蔭こかげなる土手下の路傍みちばたに井戸があって夏冬ともに甘酒あまざけ大福餅だいふくもち稲荷鮓いなりずし飴湯あめゆなんぞ売るものがめいめい荷をおろして往来ゆききの人の休むのを待っていた。 車力しゃりき馬方うまかたが多い時には五人も六人も休んで飯をくっている事もあった。 これは竹橋の方から這入って来ると御城内ごじょうない代官町の通は歩くものにはそれほどに気がつかないが車をくものには限りも知れぬ長い坂になっていて、丁度このへんがその中途に当っているからである。 東京の地勢はかくの如く漸次ぜんじに麹町四谷よつやの方へと高くなっているのである。 夏の炎天には私も学校の帰途かえりみち井戸の水で車力や馬方と共に手拭てぬぐいを絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。 土手にはその時分から既に「昇ルベカラズ」の立札たてふだ付物つきものになっていたが構わず登れば堀を隔てて遠く町が見える。 かくの如き眺望はあえてここのみならず、外濠そとぼり松蔭まつかげから牛込うしごめ小石川の高台を望むと同じく先ず東京ちゅうでの絶景であろう。

私は錦町からの帰途桜田御門さくらだごもんの方へ廻ったり九段くだんの方へ出たりいろいろ遠廻りをして目新しい町を通って見るのが面白くてならなかった。 しかし一年ばかりののち途中の光景にも少しきて来た頃私の家は再び小石川の旧宅に立戻たちもどる事になった。 その夏始めて両国りょうごく水練場すいれんばへ通いだしたので、今度は繁華の下町したまち大川筋おおかわすじとの光景に一方ひとかたならぬきょうを催すこととなった。

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日和下駄 - 情報

日和下駄 一名 東京散策記

ひよりげた いちめい とうきょうさんさくき

文字数 49,748文字

著者リスト:
著者永井 荷風

底本 荷風随筆集(上)

親本 荷風隨筆 二

青空情報


底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風隨筆 二」岩波書店
   1981(昭和56)年12月17日第1刷発行
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「屋敷」と「屋舗」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「日和下駄(ひよりげた) 一名 東京散策記」となっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2009年12月3日作成
2019年12月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:日和下駄

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