序
東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。
そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。
『日和下駄』は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌『三田文学』に連載したりしを、この度米刃堂主人のもとめにより改竄して一巻とはなせしなり。
ここにかく起稿の年月を明にしたるはこの書板成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところ尠からざらん事を思へばなり。
見ずや木造の今戸橋は蚤くも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草の花を見ず。
桜田御門外また芝赤羽橋向の閑地には土木の工事今まさに興らんとするにあらずや。
昨日の淵今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、拙きこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。
乙卯の年晩秋
荷風小史
[#改丁]
第一 日和下駄
人並はずれて丈が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。
いかに好く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。
これは年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。
変りやすいは男心に秋の空、それにお上の御政事とばかり極ったものではない。
春の花見頃午前の晴天は午後の二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。
梅雨の中は申すに及ばず。
土用に入ればいついかなる時驟雨沛然として来らぬとも計りがたい。
尤もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が割なき契を結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ幌の中、しっぽり何処ぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。
閑話休題日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。
天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返す霜解も何のその。
アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通、やたらに溝の水を撒きちらす泥濘とて一向驚くには及ぶまい。
私はかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。
市中の散歩は子供の時から好きであった。
十三、四の頃私の家は一時小石川から麹町永田町の官舎へ引移った事があった。
勿論電車のない時分である。
私は神田錦町の私立英語学校へ通っていたので、半蔵御門を這入って吹上御苑の裏手なる老松鬱々たる代官町の通をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら竹橋を渡って平川口の御城門を向うに昔の御搗屋今の文部省に沿うて一ツ橋へ出る。
この道程もさほど遠いとも思わず初めの中は物珍しいのでかえって楽しかった。
宮内省裏門の筋向なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎があった。
その頃その木蔭なる土手下の路傍に井戸があって夏冬ともに甘酒大福餅稲荷鮓飴湯なんぞ売るものがめいめい荷を卸して往来の人の休むのを待っていた。
車力や馬方が多い時には五人も六人も休んで飯をくっている事もあった。
これは竹橋の方から這入って来ると御城内代官町の通は歩くものにはそれほどに気がつかないが車を曳くものには限りも知れぬ長い坂になっていて、丁度この辺がその中途に当っているからである。
東京の地勢はかくの如く漸次に麹町四谷の方へと高くなっているのである。
夏の炎天には私も学校の帰途井戸の水で車力や馬方と共に手拭を絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。
土手にはその時分から既に「昇ルベカラズ」の立札が付物になっていたが構わず登れば堀を隔てて遠く町が見える。
かくの如き眺望は敢てここのみならず、外濠の松蔭から牛込小石川の高台を望むと同じく先ず東京中での絶景であろう。
私は錦町からの帰途桜田御門の方へ廻ったり九段の方へ出たりいろいろ遠廻りをして目新しい町を通って見るのが面白くてならなかった。
しかし一年ばかりの後途中の光景にも少し飽きて来た頃私の家は再び小石川の旧宅に立戻る事になった。
その夏始めて両国の水練場へ通いだしたので、今度は繁華の下町と大川筋との光景に一方ならぬ興を催すこととなった。