• URLをコピーしました!

燃ゆる頬

著者:堀辰雄

もゆるほお - ほり たつお

文字数:7,962 底本発行年:1947
著者リスト:
著者堀 辰雄
0
0
0


序章-章なし

私は十七になった。 そして中学校から高等学校へはいったばかりの時分であった。

私の両親は、私が彼もとであんまり神経質に育つことを恐れて、私をそこの寄宿舎に入れた。 そういう環境の変化は、私の性格にいちじるしい影響を与えずにはおかなかった。 それによって、私の少年時からの脱皮は、気味悪いまでに促されつつあった。

寄宿舎は、あたかもはちの巣のように、いくつもの小さい部屋に分れていた。 そしてその一つ一つの部屋には、それぞれ十人余りの生徒等が一しょくたに生きていた。 それに部屋とは云うものの、中にはただ、穴だらけの、大きなつくえが二つ三つ置いてあるきりだった。 そしてその卓の上には誰のものともつかず、白筋のはいった制帽とか、辞書とか、ノオトブックとか、インクつぼとか、煙草の袋とか、それらのものがごっちゃになって積まれてあった。 そんなものの中で、或る者は独逸ドイツ語の勉強をしていたり、或る者は足のこわれかかった古椅子にあぶなっかしそうに馬乗りになって煙草ばかり吹かしていた。 私は彼等の中で一番小さかった。 私は彼等から仲間はずれにされないように、苦しげに煙草をふかし、まだひげえていないほおにこわごわ剃刀かみそりをあてたりした。

二階の寝室はへんに臭かった。 そのよごれた下着類のにおいは私をむかつかせた。 私が眠ると、そのにおいは私の夢の中にまで入ってきて、まだ現実では私の見知らない感覚を、その夢に与えた。 私はしかし、そのにおいにもだんだん慣れて行った。

こうして私の脱皮はすでに用意されつつあった。 そしてただ最後の一撃だけが残されていた……

或る日の昼休みに、私は一人でぶらぶらと、植物実験室の南側にある、ひっそりした花壇のなかを歩いていた。 そのうちに、私はふと足を止めた。 そこの一隅にむらがりながら咲いている、私の名前を知らない真白な花から、花粉まみれになって、一匹の蜜蜂みつばちの飛び立つのを見つけたのだ。 そこで、その蜜蜂がその足にくっついている花粉のかたまりを、今度はどの花へ持っていくか、見ていてやろうと思ったのである。 しかし、そいつはどの花にもなかなか止まりそうもなかった。 そしてあたかもそれらの花のどれを選んだらいいかと迷っているようにも見えた。 ……その瞬間だった。 私はそれらの見知らない花が一せいに、その蜜蜂を自分のところへ誘おうとして、なんだかめいめいの雌蕋めしべを妙な姿態にくねらせるのを認めたような気がした。

……そのうちに、とうとうその蜜蜂は或る花を選んで、それにぶらさがるようにして止まった。 その花粉まみれの足でその小さな柱頭にしがみつきながら。 やがてその蜜蜂はそれからも飛び立っていった。 私はそれを見ると、なんだか急に子供のような残酷な気持になって、いま受精を終ったばかりの、その花をいきなり※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしりとった。 そしてじいっと、他の花の花粉を浴びている、その柱頭に見入っていたが、しまいには私はそれを私のみくちゃにしてしまった。 それから私はなおも、さまざまな燃えるような紅や紫の花の咲いている花壇のなかをぶらついていた。 その時、その花壇にT字形をなして面している植物実験室の中から、硝子戸ガラスどごしに私の名前を呼ぶものがあった。 見ると、それは魚住うおずみと云う上級生であった。

「来て見たまえ。 顕微鏡を見せてやろう……」

その魚住と云う上級生は、私の倍もあるような大男で、円盤投げの選手をしていた。 グラウンドに出ているときの彼は、その頃私たちの間に流行していた希臘ギリシヤ彫刻の独逸製の絵はがきの一つの、「円盤投手ディスカスヴェルフェル」と云うのに少し似ていた。 そしてそれが下級生たちに彼を偶像化させていた。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

燃ゆる頬 - 情報

燃ゆる頬

もゆるほお

文字数 7,962文字

著者リスト:
著者堀 辰雄

底本 燃ゆる頬・聖家族

青空情報


底本:「燃ゆる頬・聖家族」新潮文庫、新潮社
   1947(昭和22)年11月30日発行
   1970(昭和45)年3月30日26刷改版
   1987(昭和62)年10月20日51刷
初出:「文藝春秋」
   1932(昭和7)年1月号
初収単行本:「麥藁帽子」四季社
   1933(昭和8)年12月5日
※初出情報は、「堀辰雄全集第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:燃ゆる頬

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!