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玉藻の前

著者:岡本綺堂

たまものまえ - おかもと きどう

文字数:129,941 底本発行年:1992
著者リスト:
著者岡本 綺堂
底本: 修禅寺物語
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清水詣きよみずもう

「ほう、よい月じゃ。 まるで白銀しろがねの鏡をぎすましたような」

あらん限りの感嘆のことばを、昔から言いふるしたこの一句に言い尽くしたというように、男は晴れやかな眉をあげて、あしたは十三夜という九月なかばのあざやかな月を仰いだ。 男は今夜のよわいよりも三つばかりも余計に指を折ったらしい年頃で、まだ一人前の男のかずには入らない少年であった。 彼はむろん烏帽子えぼしをかぶっていなかった。 黒い髪をむすんでうしろに垂れて、浅黄あさぎ無地に大小のともえを染め出した麻の筒袖に、土器かわらけ色の短い切袴きりばかまをはいていた。 夜目にはその着ている物の色目もはっきりとは知れなかったが、筒袖も袴も洗いざらしのように色がさめて、袴の裾はしわだらけに巻くれあがっていた。

そのわびしい服装みなりに引きかえて、この少年は今夜の月に照らされても恥ずかしくないほどの立派な男らしい顔をもっていた。 彼に玉子色の小袖を着せて、うす紅梅の児水干ちごすいかんをきせて、漢竹の楊条ようじょうを腰にささせたらば、あわれ何若丸とか名乗る山門のちごとして悪僧ばらが渇仰随喜かつごうずいきまとにもなりそうな美しく勇ましい児ぶりであった。 しかし今の彼のさびしい腰のまわりには楊条もなかった。 ちいがたなも見えなかった。 彼は素足に薄いきたない藁草履わらぞうりをはいていた。

「ほんによい月じゃ」

彼に口をあわせるように答えたのは、彼と同年か一つぐらいも年下かと思われる少女で、この物語の進行をいそぐ必要上、今くわしくその顔かたちなどを説明している余裕がない。 ここでは唯、彼女が道連れの少年よりも更に美しく輝いた気高い顔をもっていて、陸奥みちのく信夫摺しのぶずりのような模様を白く染め出した薄萌黄うすもえぎ地の小振袖を着て、やはり素足に藁草履をはいていたというだけを、しるすにとどめて置きたい。

少年と少女とは、清水きよみずの坂に立って、今夜の月を仰いでいるのであった。 京の夜露はもうしっとりとりてきて、肌の薄い二人は寒そうに小さい肩を擦り合ってあるき出した。 今から七百六十年も前の都は、たとい王城の地といっても、今の人たちの想像以上に寂しいものであったらしい。 ことにこの戊辰つちのえたつ久安きゅうあん四年には、禁裏に火のわざわいがあった。 談山たんざん鎌足公かまたりこうの木像が自然に裂けてこわれた。 夏の間にはおそろしい疫病がはやった。 冬に近づくに連れて盗賊が多くなった。 さしもに栄えた平安朝時代も、今では末の末の代になって、なんとはなしに世の乱れという怖れが諸人の胸に芽を吹いてきた。 前に挙げたもろもろの災いは、何かのおそろしい前兆であるらしく都の人びとをおびやかした。

そのなかでも盗賊の多いというのが覿面てきめんにおそろしいので、この頃は都大路みやこおおじにも宵から往来が絶えてしまった。 まして片隅に寄ったこの清水堂きよみずどうのあたりは、昼間はともあれ、秋の薄い日があわただしく暮れて、京の町々の灯がまばらに薄黄色く見おろされる頃になると、笠の影も草履の音も吹き消されたように消えてしまって、よくよくの信心者でも、ここまで夜詣りの足を遠く運んで来る者はなかった。

その寂しい夜の坂路を、二人はたよりなげにたどって来るのであった。 月のひかりは高い梢にささえられて、二人の小さい姿はときどきに薄暗い蔭に隠された。 両側の高藪たかやぶは人をおどすように不意にざわざわと鳴って、どこかで狐の呼ぶ声もきこえた。

「のう、みくず

「おお、千枝ちえよ」

男と女とはたがいにその名を呼びかわした。 藻は少女の名で、千枝松は少年の名であった。 用があって呼んだのではない、あまりの寂しさに堪えかねて、ただ訳もなしに人を呼んだのである。 二人はまた黙ってあるいた。

「観音さまの御利益ごりやくがあろうかのう」と、藻はおぼつかなげに溜息をついた。

「無うでか、御利益がのうでか」と、千枝松はすぐに答えた。 「み仏を疑うてはならぬと、叔母御が明け暮れに言うておらるる。

清水詣きよみずもう

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玉藻の前 - 情報

玉藻の前

たまものまえ

文字数 129,941文字

著者リスト:
著者岡本 綺堂

底本 修禅寺物語

青空情報


底本:「修禅寺物語」光文社文庫、光文社
   1992(平成4)年3月20日初版1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2000年3月30日公開
2012年1月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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