菜穂子
著者:堀辰雄
なおこ - ほり たつお
文字数:88,310 底本発行年:1977
楡の家
第一部
一九二六年九月七日、O村にて
菜穂子、
私はこの日記をお前にいつか読んで貰うために書いておこうと思う。
私が死んでから何年か立って、どうしたのかこの頃ちっとも私と口を利こうとはしないお前にも、もっと打ちとけて話しておけばよかったろうと思う時が来るだろう。
そんな折のために、この日記を書いておいてやりたいのだ。
そういう折に思いがけなくこの日記がお前の手に入るようにさせたいものだが、――そう、私はこれを書き上げたら、この山の家の中の何処か人目につかないところに隠して置いてやろう。
……数年間秋深くなるまでいつも私が一人で居残っていたこの家に、お前はいつかお前の故に私の苦しんでいた姿をなつかしむために、しばらくの日を過しに来るようなことがあるかも知れぬ。
その時までこの山の家が私の生きていた頃とそっくりその
それにしても、この頃のお前はどうしてこんなに私と言葉を交わすのを避けてばかりいるのかしら? 何かお互に傷つけ合いそうなことを私から云い出されはせぬかと恐れておいでばかりなのではない。
かえってお前の方からそういうことを云い出しそうなのを恐れておいでなのだとしか思えない。
この頃のこんな気づまりな重苦しい空気が、みんな私から出たことなら、お兄さんやお前にはほんとうにすまないと思う。
こうした
私の父は或る知名の実業家であったが、私のまだ娘の時分に、事業の上で取り返しのつかぬような失敗をした。
そこで母は私の行末を案じて、その頃流行のミッション・スクールに私を入れてくれた。
そうして私はいつもその母に「お前は女でもしっかりしておくれよ。
いい成績で卒業して外国にでも留学するようになっておくれよ」と云い聞かされていた。
そのミッション・スクールを出ると、私は程なくこの三村家の人となった。
それで、自分はどうしても行かなくてはならないものと思いこんでいたせいか、子供ごころに一層恐ろしい気のしていた、そんな外国なんかへは行かずにすんだ。
その代り、この三村の家もその頃は、おじいさんと云うのが大へん
実のところ、私はその時までお父様の方がお先き立ちなされようとは想像だにしていなかった。 そうして若い頃などは、私が先きに死んでしまったならば、お父様はどんなにお淋しいことだろうと、そのことばかり云い暮らしていた程であった。 それなのにその病身の私の方が小さなお前たちとたった三人きり取り残されてしまったのだから、最初のうちは何だかぽかんとしてしまっていた。
そのうちに
生前、お前のお父様は大抵夏になると、私と子供たちを上総の海岸にやって、御自分はお勤めの都合でうちに居残っていらっしゃった。
そうして、一週間ぐらい休暇をおとりになると、山がお好きだったので、一人で信濃の方へ出かけられた。
しかし山登りなどをなさるのではなく、ただ山の
楡の家
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菜穂子 - 情報
青空情報
底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店
1934(昭和9)年11月
楡の家 第二部「文学界」
1941(昭和16)年9月号
菜穂子「中央公論」
1941(昭和16)年3月号
※楡の家 第一部の初出時の表題は「物語の女」です。
※楡の家 第二部の初出時の表題は「目覚め」です。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2016年2月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
青空文庫:菜穂子