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風立ちぬ

著者:堀辰雄

かぜたちぬ - ほり たつお

文字数:54,457 底本発行年:1977
著者リスト:
著者堀 辰雄
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序章-章なし

Le vent se l※(グレーブアクセント付きE小文字)ve, il faut tenter de vivre.

PAUL VAL※(アキュートアクセント付きE)RY

序曲

それらの夏の日々、一面にすすきの生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。 そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色あかねいろを帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。 ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物をじっていた。 砂のような雲が空をさらさらと流れていた。 そのとき不意に、何処からともなく風が立った。 私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色あいいろが伸びたり縮んだりした。 それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。 それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。 すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。 お前は私のするがままにさせていた。

風立ちぬ、いざ生きめやも。

ふと口をいて出て来たそんな詩句を、私は私にもたれているお前の肩に手をかけながら、口のうちで繰り返していた。 それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。 まだよく乾いてはいなかったカンヴァスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまっていた。 それを再び画架に立て直し、パレット・ナイフでそんな草の葉をりにくそうにしながら、

「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」

お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧あいまいな微笑をした。

「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」

或る朝のこと、私達が森の中をさまよっているとき、突然お前がそう言い出した。 私はなんだか不満そうに黙っていた。 するとお前は、そういう私の方を見ながら、すこししゃがれたような声で再び口をきいた。

「そうしたらもう、こんな散歩も出来なくなるわね」

「どんな散歩だって、しようと思えば出来るさ」

私はまだ不満らしく、お前のいくぶん気づかわしそうな視線を自分の上に感じながら、しかしそれよりももっと、私達の頭上の梢が何んとはなしにざわめいているのに気をられているような様子をしていた。

「お父様がなかなか私を離して下さらないわ」

私はとうとうれったいとでも云うような目つきで、お前の方を見返した。

「じゃあ、僕達はもうこれでお別れだと云うのかい?」

「だって仕方がないじゃないの」

そう言ってお前はいかにも諦め切ったように、私につとめて微笑ほほえんで見せようとした。 ああ、そのときのお前の顔色の、そしてそのくちびるの色までも、何んと蒼ざめていたことったら!

「どうしてこんなに変っちゃったんだろうなあ。 あんなに私に何もかも任せ切っていたように見えたのに……」と私は考えあぐねたような恰好かっこうで、だんだん裸根のごろごろし出して来た狭い山径やまみちを、お前をすこし先きにやりながら、いかにも歩きにくそうに歩いて行った。 そこいらはもうだいぶ木立が深いと見え、空気はひえびえとしていた。 ところどころに小さな沢が食いこんだりしていた。 突然、私の頭の中にこんな考えがひらめいた。

序章-章なし
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風立ちぬ - 情報

風立ちぬ

かぜたちぬ

文字数 54,457文字

著者リスト:
著者堀 辰雄

底本 昭和文学全集 第6巻

親本 堀辰雄全集 第1巻

青空情報


底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:序曲「改造」1936(昭和11)年12月号に発表された「風立ちぬ」の発端部分を野田書房版(1938(昭和13)年4月10日刊)「風立ちぬ」において「序曲」と改題。
   春「新女苑」1937(昭和12)年4月号に「婚約」と題して。
   風立ちぬ「改造」1936(昭和11)年12月号に。構成は「発端」「」「」「」の4章から成る。
   冬「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号
   死のかげの谷「新潮」1938(昭和13)年3月号
初収単行本:「風立ちぬ」野田書房
   1938(昭和13)年4月10日
※底本の親本の筑摩全集版は、野田書房版による。初出情報は、「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2003年12月29日作成
2010年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:風立ちぬ

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