緒言
芭蕉新たに俳句界を開きしよりここに二百年、その間出づるところの俳人少からず。
あるいは芭蕉を祖述し、あるいは檀林を主張し、あるいは別に門戸を開く。
しかれどもその芭蕉を尊崇するに至りては衆口一斉に出づるがごとく、檀林等流派を異にする者もなお芭蕉を排斥せず、かえって芭蕉の句を取りて自家俳句集中に加うるを見る。
ここにおいてか芭蕉は無比無類の俳人として認められ、また一人のこれに匹敵する者あるを見ざるの有様なりき。
芭蕉は実に敵手なきか。
曰く、否。
芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべきものたること論を竢たず。
この点において何人かよくこれに凌駕せん。
芭蕉の俳句は変化多きところにおいて、雄渾なるところにおいて、高雅なるところにおいて、俳句界中第一流の人たるを得。
この俳句はその創業の功より得たる名誉を加えて無上の賞讃を博したれども、余より見ればその賞讃は俳句の価値に対して過分の賞讃たるを認めざるを得ず。
誦するにも堪えぬ芭蕉の俳句を註釈して勿体つける俳人あれば、縁もゆかりもなき句を刻して芭蕉塚と称えこれを尊ぶ俗人もありて、芭蕉という名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、咳唾珠を成し句々吟誦するに堪えながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく瓦礫とともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村とす。
蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところありて、かえって名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしと、蕪村以後の俳人のことごとく無学無識なるとに因れり。
著作の価値に対する相当の報酬なきは蕪村のために悲しむべきに似たりといえども、無学無識の徒に知られざりしはむしろ蕪村の喜びしところなるべきか。
その放縦不羈世俗の外に卓立せしところを見るに、蕪村また性行において尊尚すべきものあり。
しかして世はこれを容れざるなり。
蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり。
蕪村歿後に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝わらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言えり。
これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。
余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。
ある時小集の席上にて鳴雪氏いう、蕪村集を得来たりし者には賞を与えんと。
これもと一場の戯言なりとはいえども、この戯言はこれを欲するの念切なるより出でしものにして、その裏面にはあながちに戯言ならざるものありき。
はたしてこの戯言は同氏をして蕪村句集を得せしめ、余らまたこれを借り覧て大いに発明するところありたり。
死馬の骨を五百金に買いたる喩も思い出されておかしかりき。
これ実に数年前(明治二十六年か)のことなり。
しかしてこの談一たび世に伝わるや、俳人としての蕪村は多少の名誉をもって迎えられ、余らまた蕪村派と目せらるるに至れり。
今は俳名再び画名を圧せんとす。
かくして百年以後にはじめて名を得たる蕪村はその俳句において全く誤認せられたり。
多くの人は蕪村が漢語を用うるをもってその唯一の特色となし、しかもその唯一の特色が何故に尊ぶべきかを知らず、いわんや漢語以外に幾多の特色あることを知る者ほとんどこれなきに至りては、彼らが蕪村を尊ぶゆえんを解するに苦しむなり。
余はここにおいて卑見を述べ、蕪村が芭蕉に匹敵するところのはたしていずくにあるかを弁ぜんと欲す。
積極的美
美に積極的と消極的とあり。
積極的美とはその意匠の壮大、雄渾、勁健、艶麗、活溌、奇警なるものをいい、消極的美とはその意匠の古雅、幽玄、悲惨、沈静、平易なるものをいう。
概して言えば東洋の美術文学は消極的美に傾き、西洋の美術文学は積極的美に傾く。
もし時代をもって言えば国の東西を問わず、上世には消極的美多く後世には積極的美多し。
(ただし壮大雄渾なるものに至りてはかえって上世に多きを見る)されば唐時代の文学より悟入したる芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用うること多く、従って後世芭蕉派と称する者また多くこれに倣う。
その寂といい、雅といい、幽玄といい、細みといい、もって美の極となすもの、ことごとく消極的ならざるはなし。
(ただし壮大雄渾の句は芭蕉これあれども後世に至りては絶えてなし)ゆえに俳句を学ぶ者消極的美を唯一の美としてこれを尚び、艶麗なるもの、活溌なるもの、奇警なるものを見ればすなわちもって邪道となし卑俗となす。
あたかも東洋の美術に心酔する者が西洋の美術をもってことごとく野卑なりとして貶するがごとし。
艶麗、活溌、奇警なるものの野卑に陥りやすきはもとよりしかり。