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遺訓

著者:西郷隆盛

いくん - さいごう たかもり

文字数:8,679 底本発行年:1890
著者リスト:
著者西郷 隆盛
底本: 西郷南洲遺訓
親本: 南洲翁遺訓
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序章-章なし

一 廟堂に立ちて大政を爲すは天道を行ふものなれば、些とも私を挾みては濟まぬもの也。 いかにも心を公平に操り、正道を蹈み、廣く賢人を選擧し、能く其職に任ふる人を擧げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。 夫れゆゑ眞に賢人と認る以上は、直に我が職を讓る程ならでは叶はぬものぞ。 故に何程國家に勳勞有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。 官は其人を選びて之を授け、功有る者には俸祿を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるゝに付、然らば尚書(○書經)※(「兀のにょうの形+虫」、第4水準2-87-29)ちゆうきかうに「徳さかんなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相對するは此の義にて候ひしやと請問せいもんせしに、翁欣然として、其通りぞと申されき。

二 賢人百官を總べ、政權一途に歸し、一かくの國體定制無ければ、縱令たとひ人材を登用し、言路を開き、衆説を容るゝ共、取捨方向無く、事業雜駁にして成功有べからず。 昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云樣なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。

三 政の大體は、文を興し、武を振ひ、農を勵ますの三つに在り。 其他百般の事務は皆此の三つの物を助くるの具也。 此の三つの物の中に於て、時に從ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして他を先にするは更に無し。

四 萬民の上に位する者、己れを愼み、品行を正くし、驕奢を戒め、節儉を勉め、職事に勤勞して人民の標準となり、下民其の勤勞を氣の毒に思ふ樣ならでは、政令は行はれ難し。 然るに草創さうさうの始に立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。 今と成りては、戊辰の義戰も偏へに私を營みたる姿に成り行き、天下に對し戰死者に對して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。

五 或る時「幾ビカ辛酸志始 丈夫玉碎愧甎全 一家遺事人知ルヤ メニ兒孫美田。」 との七絶を示されて、若し此の言に違ひなば、西郷は言行反したるとて見限られよと申されける。

六 人材を採用するに、君子小人の辨酷べんこくに過ぐる時は却て害を引起すもの也。 其故は、開闢以來世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其長所を取り之を小職に用ひ、其材藝を盡さしむる也。 東湖先生申されしは「小人程才藝有りて用便なれば、用ひざればならぬもの也。 去りとて長官にゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。

七 事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀さぼうを用ふ可からず。 人多くは事の指支さしつかゆる時に臨み、作略さりやくを用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜じぎ次第工夫の出來る樣に思へ共、作略の煩ひ屹度生じ、事必ず敗るゝものぞ。 正道を以て之を行へば、目前には迂遠なる樣なれ共、先きに行けば成功は早きもの也。

八 廣く各國の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我國の本體をゑ風教を張り、然して後しづかに彼の長所を斟酌するものぞ。 否らずして猥りに彼れに倣ひなば、國體は衰頽し、風教は萎靡ゐびして匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。

九 忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、萬世に亙り宇宙に彌りふ可からざるの要道也。 道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し。

一〇 人智を開發するとは、愛國忠孝の心を開くなり。 國に盡し家に勤むるの道明かならば、百般の事業は從て進歩す可し。 或ひは耳目を開發せんとて、電信を懸け、鐵道を敷き、蒸氣仕掛けの器械を造立し、人の耳目を聳動しようどうすれ共、何に故電信鐵道の無くては叶はぬぞ缺くべからざるものぞと云ふ處に目を注がず、猥りに外國の盛大を羨み、利害得失を論ぜず、家屋の構造より玩弄物に至る迄、一々外國を仰ぎ、奢侈の風を長じ、財用を浪費せば、國力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本身代限りの外有る間敷也。

一一 文明とは道の普く行はるゝを贊稱せる言にして、宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず。 世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蠻やらとも分らぬぞ。 予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと爭ふ。 否な野蠻ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、其人口をつぼめて言無かりきとて笑はれける。

一二 西洋の刑法は專ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。 故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑒誡かんかいとなる可き書籍を與へ、事に因りては親族朋友の面會をも許すと聞けり。 尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡かんくわ孤獨をあはれみ、人の罪に陷るをうれひ給ひしは深けれ共、實地手の屆きたる今の西洋の如く有しにや、書籍の上には見え渡らず、實に文明ぢやと感ずる也。

序章-章なし
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遺訓 - 情報

遺訓

いくん

文字数 8,679文字

著者リスト:
著者西郷 隆盛

底本 西郷南洲遺訓

親本 南洲翁遺訓

青空情報


底本:「西郷南洲遺訓」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月2日第1刷発行
   1985(昭和60)年2月20日第26刷発行
底本の親本:「南洲翁遺訓」三矢藤太郎
   1890(明治23)年
初出:「南洲翁遺訓」三矢藤太郎
   1890(明治23)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「鑒の10かく目の「一」が「丶」」は「デザイン差」と見て「鑒」で入力しました。
※「毋の真ん中の縦棒が下につきぬけたもの」は、「毋」の「デザイン差」とは見ず、外字注記しました。
※「「褒」の「保」に代えて「丑」」は「デザイン差」と見て「衰」で入力しました。
入力:田中哲郎
校正:川山隆
2008年4月11日作成
2008年8月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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