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藤十郎の恋

著者:菊池寛

とうじゅうろうのこい - きくち かん

文字数:13,121 底本発行年:1970
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著者菊池 寛
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序章-章なし

元禄げんろくと云う年号が、何時いつの間にか十余りを重ねたある年の二月の末である。

都では、春のにおいがすべての物を包んでいた。 ついこの間までは、頂上の処だけは、まだらに消え残っていた叡山えいざんの雪が、春の柔い光の下に解けてしまって、跡には薄紫を帯びた黄色の山肌やまはだが、くっきりと大空に浮んでいる。 その空の色までが、冬の間に腐ったような灰色を、洗い流して日一日緑にえて行った。

かもの河原には、丸葉柳まるはやなぎが芽ぐんでいた。 そのこいしの間には、自然咲のすみれや、蓮華れんげが各自の小さい春を領していた。 河水は、日増ひましに水量を加えて、軽い藍色あいいろの水が、処々の川瀬にせかれて、淙々そうそうの響を揚げた。

黒木を売る大原女おはらめびやかな声までが春らしい心をそそった。 江戸へ下る西国大名の行列が、毎日のように都の街々を過ぎた。 彼等は三条の旅宿に二三日の逗留とうりゅうをして、都の春を十分に楽しむと、また大鳥毛おおとりげやりを物々しげに振立てて、三条大橋の橋板を、踏みとどろかしながら、はるか東路あずまじへと下るのであった。

東国から、九州四国から、また越路こしじの端からも、本山参りの善男善女ぜんなんぜんにょの群が、ぞろぞろと都をさして続いた。 そして彼等も春の都の渦巻の中に、幾日かを過すのであった。

そのうちに、花が咲いたと云う消息が、都の人々の心を騒がし始めた。 祇園ぎおん清水きよみず東山ひがしやま一帯の花がず開く、嵯峨さが北山きたやまの花がこれに続く。 こうして都の春は、愈々いよいよ爛熟らんじゅくの色をすのであった。

が、その年の都の人達の心を、一番はげしく狂わせていたのは、四条中島都万太夫座みやこまんだゆうざの坂田藤十郎と山下半左衛門座の中村七三郎との、去年から持越しの競争であった。

三ヶ津の総芸頭そうげいがしらとまで、たたえられた坂田藤十郎は傾城買けいせいかい上手じょうずとして、やつしの名人としては天下無敵の名をほしいままにしていた。 が、去年霜月、半左衛門の顔見世かおみせ狂言に、東から上った少長しょうちょう中村七三郎は、江戸歌舞伎の統領として、藤十郎と同じくやつしの名人であった。 二人は同じやつしの名人として、江戸と京との歌舞伎の為にも、烈しく相争わねばならぬ宿縁を、持っているのであった。

京の歌舞伎の役者達は、中村七三郎の都上りを聴いて、皆異常な緊張を示した。 が、その人達の期待や恐怖を裏切って七三郎の顔見世狂言は、意外な不評であった。 見物は口々に、

「江戸の名人じゃ、と云う程に、何ぞ珍らしい芸でもするのかと思っていたに、都の藤十郎には及び付かぬ腕じゃ」とののしった。 七三郎をしる者は、ただ素人しろうとの見物だけではなかった。 彼の舞台を見た役者達までも、

「江戸の少長は、評判倒れの御仁じゃ、もっとも江戸と京とでは評判の目安も違うほどに江戸の名人は、京の上手にも及ばぬものじゃ。 所詮しょせん物真似ものまね狂言は都のものと極わまった」と、勝誇るように云い振れた。 が、七三郎を譏しるうわさが、藤十郎の耳に入ると、彼はまゆひそめながら、

「われらの見るところは、また別じゃ。 少長どのは、まことに至芸のお人じゃ。 われらには、おそろしい大敵じゃ」と、只一人世評をしりぞけたのであった。

果して藤十郎の評価は、狂っていなかった。 顔見世狂言にひどい不評を招いた中村七三郎は、年が改まると初春の狂言に、『傾城けいせい浅間あさまだけ』を出して、巴之丞とものじょうの役にふんした。 七三郎の巴之丞の評判は、すさまじいばかりであった。

藤十郎は、得意の夕霧ゆうぎり伊左衛門を出して、これに対抗した。 二人の名優が、舞台の上の競争は、都の人々の心をき立たせるに十分であった。 が新しき物を追うのは、人心の常である。

序章-章なし
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藤十郎の恋 - 情報

藤十郎の恋

とうじゅうろうのこい

文字数 13,121文字

著者リスト:
著者菊池 寛

底本 藤十郎の恋・恩讐の彼方に

青空情報


底本:「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」新潮文庫、新潮社
   1970(昭和45)年3月25日初版発行
   1990(平成2)年1月15日第34刷
初出:「大阪毎日新聞」
   1919(大正8)年4月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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