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天衣無縫

著者:織田作之助

てんいむほう - おだ さくのすけ

文字数:12,954 底本発行年:1976
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著者織田 作之助
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序章-章なし

みんなは私が鼻の上に汗をためて、息を弾ませて、小鳥みたいにちょんちょんとして、つまりいそいそとして、見合いに出掛けたといって嗤ったけれど、そんなことはない。 いそいそなんぞ私はしやしなかった。 といって、そんな時私たちの年頃の娘がわざとらしく口にする「いやでいやでたまらなかった」――それは嘘だ。 恥かしいことだけど、どういう訳かその年になるまでついぞ縁談がなかったのだもの、まるでおろおろ小躍りしているはたの人たちほどではなかったにしても、矢張り二十四の年並みに少しは灯のつく想いに心が温まったのは事実だ。 けれど、いそいそだなんて、そんなことはなかった。 なんという事を言う人達だろう。

想っただけでもいやな言葉だけど、華やかな結婚、そんなものを夢みているわけではなかった。 貴公子や騎士の出現、ここにこうして書くだけでもぞっとする。 けれど、私だって世間並みに一人の娘、矢張り何かが訪れて来そうな、思いも掛けぬことが起りそうな、そんな憧れ、といって悪ければ、期待はもっていた。 だから、いきなり殺風景な写真を見せつけられ、うむを言わさず、見合いに行けと言われて、はいと承知して、いいえ、承知させられて、――そして私がいそいそと――、あんまりだ。 殺風景ななどと、男の人の使うような言葉をもちいたが、全くその写真を見たときの私の気持はそれより外に現わせない。 それとも、いっそ惨めと言おうか。 それを考えてくれたら、鼻の上に汗をためて――そんな陰口は利けなかった筈だ。

その写真の人は眼鏡を掛けていたのだ。 と言ってもひとにはわかるまい。 けれど、とにかく私にとっては、その人は眼鏡を掛けていたのだ。 いや、こんな気障な言い方はよそう。 ――ほんとうに、まだ二十九だというのに、どうしてあんな眼鏡の掛け方をするのだろう。 何故もっとしゃんと、――この頃は相当年輩の人だって随分お洒落で、太いセルロイドの縁を青年くさく皺の上に見せているのに、――まるでその人と来たら、わざとではないかとはじめ思った、思いたかったくらい、今にもずり落ちそうな、ついでに水洟も落ちそうな、泣くとき紐でこしらえた輪を薄い耳の肉から外して、硝子のくもりを太短い親指の先でこすって、はれぼったい瞼をちょっと動かす、――そんな仕種まで想像される、――一口に言えば爺むさい掛け方、いいえ、そんな言い方では言い足りない。 風采の上がらぬ人といってもいろいろあるけれど、本当にどこから見ても風采が上がらぬ人ってそうたんとあるものではない、それをその人ばかりは、誰が見たって、この私の欲眼で見たって、――いや、止そう。 私だってちょっとも綺麗じゃない。 歯列を矯正したら、まだいくらか見られる、――いいえ、どっちみち私は醜女、しこめです。 だから、その人だって、私の写真を見て、さぞがっかりしたことだろう。 私の生れた大阪の方言でいえばおんべこちゃ、そう思って私はむしろおかしかった。 あんまりおかしくて、涙が出て、折角縁談にありついたという気持がいっぺんに流されて、ざまあ見ろ。 はしたない言葉まで思わず口ずさんで、悲しかった。 浮々した気持なぞありようがなかった。 くどいようだけれど、それだのにいそいそなんて、そんな……。

もっとも、その当日、まるでお芝居に出るみたいに、生れてはじめて肌ぬぎになって背中にまでお白粉をつけるなど、念入りにお化粧したので、もう少しで約束の時間に遅れそうになり、大急ぎでかけつけたものだから、それを見合いはともかくそんな大袈裟な化粧をしたということにさすがに娘らしい興奮もあったものだから、いくらかいそいそしているように、はた眼には見えたのかも知れない。 と、こう言い切ってしまっては至極あっけないが、いや、そう誤解されたと思っていることにしよう。

とにかく出掛けた。 ところが、約束の場所へそれこそ大急ぎでかけつけてみると、その人はまだ来ていなかった。 別室とでもいうところでひっそり待っていると、仲人さんが顔を出し、実は親御さん達はとっくに見えているのだが、本人さんは都合で少し遅れることになった、というのは、本人さんは今日も仕事の関係上欠勤するわけにいかず、平常どおり出勤し、社がひけてからここへやって来ることになっているのだが、たぶん急に用事ができて脱けられぬと思う、よってもう暫らく待っていただけないか、いま社へ電話しているから、それにしても今日は良いお天気で本当に――、ぼうっとして顔もよう見なかったなんて恥かしいことにはなるまい、いいえ、ネクタイの好みが良いか悪いかまでちゃんと見届けてやるんだなどと、まるで浅ましく肚の中で眼をきょろつかせた意気込んだ気持がいっぺんにすかされたようで、いやだわ、いやだわ、こんなことなら来るんじゃなかったと、わざと二十歳前の娘みたいにくねくねとすね、それをはたの者がなだめる、――そんな騒ぎの、しかしどちらかといえば、ひそびそした時間が一時間経って、やっとその人は来た。 赤い顔でふうふう息を弾ませ、酒をのんでいると一眼でわかった。

あとで聞いたことだが、その人はその日社がひけて、かねての手筈どおり見合いの席へ行こうとしたところを、友達に一杯やろうかと誘われたのだった。 見合いがあるからと断ればよいものを、そしてまたその口実なら立派に通る筈だのに、また、当然そう言わねばならぬのに、その人はそれが言えなかった。 これは私にとって、どういうことになるんだろう。 日頃、附合いの良いたちで、無理に誘われると断り切れなかったなんて、浅い口実だ。 何ごとにつけてもいやと言い切れぬ気の弱いたちで……などといってみたところで、しかし外の場合と違うではないか。

序章-章なし
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天衣無縫 - 情報

天衣無縫

てんいむほう

文字数 12,954文字

著者リスト:

底本 定本織田作之助全集 第二巻

青空情報


底本:「定本織田作之助全集 第二巻」文泉堂出版
   1976(昭和51)年4月25日発行
   1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「文芸」
   1942(昭和17)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2008年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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